法話 ある僧侶の死と映画『君の膵臓を食べたい』
今日は死ぬということについてお話をしたいと思っていたんですね・・・、そうやって用意しておりましたら、とても悲しいニュース聞きまして。
(先輩僧侶である)新開先生生がですね、お亡くなりになったと聞きまして。
私は付き合い短かったんですけど、動揺しているといいますかね。
私が会った時は、もう可愛らしいおばあちゃん先生だったんですが。
すごく長いこと頑張ってこられたから、こういう白いブラウスをたくさん持っておられて、何回か私にもくださったりとかしてね。
それで「頑張りなさいよ」って言ってくださってたんですが。
やっぱり「最後にいつ会ったかな」って思うんですよね。
今年に入って1回ぐらいをお会いしたと思いますけど、なにかこう、いつまでも会えると思っていたという感じがして。いつまでも、おばあちゃんだけど、いつまでもいつまでも会える気持ちで自分がいたなあと。そういうふうにね思っていたなぁとね、こう、しみじみ感じるんですね。
私たちお友達にしてもいろんな方にしても、また会える、また次がある、という風に考えて生きているなぁとね、すごく思うんです。
で、たまたまですね、私は日本に帰った時に、映画を見まして。
飛行機の中で見たんですが。そしたらそれがね、また死をテーマにしたもので、わりと若い人向けの話だったんですが。
それは『君の膵臓が食べたい』っていう、なんていう題名なんだと思うかもしれませんが、去年日本ですごくヒットした映画です。
『君の膵臓が食べたい』 wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E3%81%AE%E8%86%B5%E8%87%93%E3%82%92%E3%81%9F%E3%81%B9%E3%81%9F%E3%81%84
まあ高校生のラブストーリーではあるんですが、「君の膵臓が食べたい」というのは、別に怖い話じゃなくて、女の子の方がすい臓の病気なんですね。
あと1年も命がもたないかもしれない、余命がいくばくも無いという状態で。クラスの男の子が偶然、彼女がもうすぐ死ぬということを知ります。
男の子と仲良くなる、でも、もう死が刻々と迫ってくる、という展開で。とてもただの青春映画じゃなくて、よくできてたんです。
私が驚いたのは、まあそういうストーリーって昔からありますよね、恋人が病気で亡くなってしまうっていう。
その話がちょっと変わっていたのは、だんだん彼女の余命が短くなっていって、ラストシーンはどうなるんだろうという感じで見ておりましたら。
体が弱ってきたけれども、デートの約束するんですね。
それで待ち合わせ場所にいるけれども、彼女が来ない、と。
「おかしいな」と思っていたら、もう余命がいくばくも無いのに、その彼女が通り魔に遭って、刺されて死んでしまうんですよ。
「ええ!?」と思いましたね。だって、ほっといてもあと少しで死ぬのに、なんでこんな展開なんだろうって思ったんです。
なんかこう、自分の中でね、やっぱり余命いくばくも無い状態で、例えば3ヶ月とか1年とか言われたら、それだけの命は保障されているような、そういう期待で見ているわけです。でも、そういうことも裏切られていくというか。
死というものはどういうふうに訪れてくるか分からない。もう「容赦ない」っていう感じ。
ただの物語というより、そういうふうに受け取ったんですね。
自分の命もそうで「まだ次がある、まだ次がある」と思って生きていて。「何年後にはこれをしよう、あれをしよう」と思って、「だいたい死ぬ時はこんな感じだろう」とね、思っています。
私はもう今月で49になるんですけど、内心「もしかしたらまだ折り返し地点ぐらいなのかもしれない」とかね、ずうずうしく思っているところがあります。
しかし、そういうことが仏法の中では、そういう気持ちではいつまでたってもね、ご信心を得ようと思って頑張って聴いてる人も、そういうことではなかなか聞けないですね。
もう「これが最後や、これが最後や」と思ってご法話にあわせてもらう。そういう気持ちで聞かないと、やっぱり開いていけないというかね。「ああだ、こうだ」とね、練りまわしているようだったら。
私たちは時間がない、間に合わないと、仏様が言ってくださっているということを、今日は新開先生がお亡くなりになったことを通して、また味わわせていただきました。
(西本願寺ブラジル別院 2018.4)