• ホーム
  • プロフィール
  • Blog
  • English
  • Português
  • Español
koun18.com

光雲をつくってくれたもの

はじめまして、久保光雲と申します。 ブラジルで浄土真宗のお坊さんをしています。

このページでは私の自己紹介をしますが、その前になぜお坊さんになったのかを、すこしお話したいと思います。

 

もともと仏教とは無縁でした

私は今、ブラジルで浄土真宗のお坊さんをしていますが、もともと仏教とは無縁の家庭に生まれました。

広島出身で、可部町という田舎でのびのびと育ちました。近くには仏教が盛んな地域もあったのですが、うちにはお仏壇もなかったのです。私はそのまま、ほとんど仏教に触れることもなく、中高は広島女学院という学校に通いました。

 

本当に仏教について知識が無く、20歳すぎまで「お釈迦さまは日本人だ」と思っていたくらいです。

 

しかしその後、京都市立芸術大学の授業で仏教と出会い、人生が180度変わったのです。

 

なぜ宗教と無縁だった私が、仏教を選び、海外で布教までするようになったのか? その理由は、私が抱えていた「死を中心とした問題」が、仏教によって解決されたからです。その結果、今は「いつ死んでも大満足」といえる、満ち足りた思いに包まれて生きています。

 

下の絵は、私の今の人生を描いたものです。 colomn00a 左上の女の子が私です。

仏教と出会う前は、世界が灰色に見えることすらありましたが、今は違います。頭の上に喜びや悩みを抱えながら、カラフルな世界を軽い足取りで進んでいます。

 

人生最大の不幸である「死の問題」に解決がついたことで、私の世界は色鮮やかに生まれ変わったのです。

 

 

愛情たっぷりの家庭と、人生の問題

私が抱えていた人生の問題は、両親がとても愛情深かったことで、より明らかなものになりました。

 

父は明るく日本人離れした性格で、「うちの娘ほど美人で品がある子はおらん。皇室に嫁に出しても恥ずかしくない」と、人前でも堂々と私のことをほめていました。とても大らかな母は「素晴らしい子を授かった。やりたいことは何でも応援しよう」といって、私が興味を持ったことはいくらでもやらせてくれました。

 

そのように家庭が温かく、楽しい場所であったからこそ、私にはある不安がありました。 それは、父や母といつか別れなければならないこと。家族が大好きだったからこそ、考えただけでも、あまりにも苦しく辛い問題でした。

 

さらに、自分が死んだらどうなるのだろう? と考えると、死んだ先がどうなっているのか全く分からず、まるで暗い穴に吸い込まれていくようでした。

1、愛する人といつか死に別れること。
2、いずれ必ず自分も死んでしまうという不安。

誰もが抱えている問題ですが、みなさんはもう解決しましたか? 私の場合は、これらの問題のせいで、世界が灰色に見えることすらありました。

 

家族の豊かな愛情に恵まれ、勉強もスポーツも楽しく、お友達もたくさんいたのですが。人生の問題は、幸せな世界から色を奪い去るのに充分な力を持っていたのです。

 

このあたりについては『光雲な毎日』という本に詳しく書きました。

 

もし興味のある方は、立読みサイト(80ページ分)がありますので、そちらを読んでいただけるとうれしいです。
 
光雲な毎日 立読み80ページ
http://koun18book1.blogspot.com/

 

 

 

では続けて、生まれてから今までの、光雲の歩みをご紹介します。

0歳~

1 2 3 4
広島の田舎に生まれました。 山に囲まれ、川が流れるすぐそばの家でした。 土手があって、緑ゆたかな場所でした。

 

父方の祖父は四国生まれ。祖母は広島生まれ。 母方の祖父は北海道生まれ。祖母は秋田生まれ。 父は、10代で京都に出て、和菓子屋に丁稚奉公をしていました。

 

見知らぬ土地で、父はずいぶん苦労しました。 父の就職した和菓子やさんでは、よその土地から来た人とは、 深くはつきあわないといった風潮があったようでした。 会社ではともに働いていても、プライベートで若者同士が集まる寄り合いには、 けっして呼んでもらえなかったそうです。

 

しかし、父は朗らかで明るく、そんなことも笑い話で語ってくれました。うちでもよく、ドラ焼きやドーナツ、カステラを焼いてくれて。 できたて、ホヤホヤで、それはそれはおいしかったです。 父が、 「お父さんがつくったと言うなよ」 と、はずかしそうに言っていた顔が、今でも浮かびます。

 

わが父は、わたしに大きな影響を与えた人です。 おもしろくて、人を笑わせることばかり考えていました。

 

日本人にはめずらしく、子どもにたいする愛情を人前でも 自慢していました。 「うちの子ほど美人で品があって頭がええ子はおらん。 皇室に出しても恥ずかしくない。」 とつねづね言っていました。 それを本気で信じて育ちました。

 

父の愛情はわたしの財産です。 心から感謝しています。

 

 

5 6
母はとてもやさしく、寛大でした。 よく私の服を作ったり、刺繍をしてくれたりしました。

 

姉といっしょにのびのび育ててもらいました。 4つ上のおっとりした姉は、小さいときは、私のわがままに手を焼いていたようです。

 

しかし、私がわがままをやめた10才くらいになってからは、 とても仲良し姉妹となりました。

 

今でも大の親友で、おしゃれできれいな、自慢のお姉ちゃんです。

 

 

幼稚園

7 8
幼稚園は、浄土真宗のお寺の幼稚園でした。

 

年中組から入ったのでなかなかなじめず、 はじめての年は、毎日泣いて帰りました。

 

お弁当だけはおいしくて、のこさず帰りました。

 

お茶の時間が本堂であり、それが大好きでした。角ゼリーがおやつに出て、うれしくて、口に入れてとけないように家までなめてました。 この時の楽しい記憶が、茶道を続けるきっかけになり、 師範を取るまですすんだのだと思います。

 

年長さんになって、先生はとても私に目をかけ、かわいがってくれました。 そのころから、幼稚園が楽しくなりました。

 

気がつけば、体もだれよりも大きく、 こわがることは何もないことに気がつきました。

 

絵をほめられて、絵描きになろうと思いだしたのも このころからでした。 今でも先生を思い出します。 イワサキ先生、大好きでした。

 

 

小学校

9 10
風邪などの病気のときは、かならずこの黒い着物を着ていました。

 

小学校では、背も高くて、体力があり、スポーツもできた方でした。

 

仲良し4人グループの友だちができて、 4人で笑ったりふざけたり、楽しい小学校生活をおくりました。

 

 

中学校~高校時代

1112

中学校にはお受験をして入りました。

 

わたしがあまりにも先生に反抗して勉強しなくなったので、 母が進学塾に入れたのがきっかけでした。

 

広島女学院という中高一貫のミッションスクールに入りました。

 

医者の娘、社長の娘etc…お金持ちの娘さんが多く、 お嬢さま学校で、わたし1人だけ浮いていましたが。

 

そこで初めて、宗教との深いかかわりをもちました。 毎日の礼拝・讃美歌・ステンドグラス・パイプオルガン、 そして、美しい聖書の言葉。 何もかも新鮮でした。

 

人間とは何なのか。 何のために生きてきたのか、ということに、 深くふれる機会をもらいました。

 

神の子羊でありたいと思い、毎朝毎晩いのり、 神の愛を実行しようと努めました。

 

しかし、人を愛そうとすればするほど、 自己欺瞞・偽善の心に悩まされました。

 

 

予備校時代

13
この写真は予備校でデッサンをしているときのものです。

 

進路は美術の大学に行きたいと思い、 高校1年の途中から、美術専門の予備校にいきました。

 

それまで女子高で育ってきたので、 いろいろな高校生や浪人生といっしょにデッサンしたり、 デザインの勉強をすることは、ひじょうに刺激的なことでした。

 

毎日遅くまで、デッサンをしてすごしました。 ヴィーナスやマルス、カラカラ帝などの彫刻、静物デッサンを、 何度もくりかえしました。

 

立体作品では、粘土をつかったりました。

 

この頃も、1番好きだったのは色彩で、 ポスターカラーの構成や水彩絵の具を使うのが いちばん好きで得意でした。

 

大学時代

14
京都市立芸術大学に入学しました。

 

ほんとうは、武蔵野美術大学に入りたいと思っていました。 東京に出る友人も多かったですし、 自分も東京に出たいと思っていました。

 

しかし、親の仕事も不景気になってきて、 公立に行ってくれ、と言われ、京芸に入ることになったのです。

 

関西弁になじめず、みんな吉本の人みたいで、ふしぎでした。 広島弁をからかわれたりして、 1年生のときはすっかり心をとざしてすごしました。

 

最初の1年は、私はここに来たくなかった、という思いがありました。

 

1516

 

左:自分で作った作品をデッサン。キリコやダリがすきで、虚無的な作品をつくるのが好きでした。 右:1年のとき、「夢殿」というテーマで作品を作りました。

 

17

 

2年生になって、専攻にうつり、 アットホームで台所もあり、ともに食べ暮らすような陶芸科に入りました。

 

先生にも先輩にもかわいがってもらい、 とっても楽しい毎日がはじまりました。

 

粘土をこねているだけでとても気持ちよく、 ろくろをひくのは楽しかったです。

 

昼間はがんばって作り、夜はみんなのうちにたずねていって飲み会があり、 ゆかいな日々が続きました。

 

 

18
(これは、奈良にある「登り窯(のぼりがま)」での実習です)

 

しかし、作品に対する先生の指導もきびしく、 作っても作ってもダメ出しをされました。

 

そのことから、自分が芸術家になれるのか、 さらには何のために生きているのかを 深く考えるようになりました。

 

優れた作品を創り出すには、精神的な面での信念が必要ではないか、 と考えはじめました。

 

そんな時、仏教芸術史演習という授業に参加したのでした。

 

関西にある寺院の国宝を見て歩く、という授業で、 美しい仏像をたくさん見ることができました。

 

私はたちまち仏像のうつくしさに魅了されました。

 

18_1

法華寺

十一面観音像

  18_2 18_3

興福寺北円堂

(上)無著像/(下)世親像

  18_4

興福寺

阿修羅像

  18_5

東大寺

月光菩薩像

 

18_6

 

三十三間堂

千手観音立像

 

18_8

 

神護寺

蓮華虚空蔵菩薩像

 

仏像がこんなに美しいのは、仏教がすばらしいからだ! そう確信して、仏教を学ぶようになりました。

初めて信仰の世界を知り、 このために私は生まれてきたのだ、と思いました。結果として浄土真宗の教えに救われ、私は子供の時から抱えていた問題を解決してもらいました(このあたりについては『光雲な毎日』に書きました。またYoutubeにアップしている法話でもお話しています)。

 

ここで仏教美術を勉強したことが 僧侶になる大きなきっかけとなりました。

 

19 20 21
(芸術大学で作った陶器作品)

 

自分の中の絵と出会う

卒業後は、高校の美術講師を勤めました。 そして結婚・出産・子育てと忙しい日々を過ごし、 気がつけば絵を描かなくなってから12年の月日が流れていました。

 

仏教と出会ってからは、仏教を勉強することと、布教をすることに夢中でした。

 

芸術は、・・・私以外にもできる人がいる。 でも、この布教は私にしかできない、と思っていました。

 

しかし10年たって、生活の中でいろいろな葛藤を感じるようになりました。

 

母となる前の私。 何も身につけていない、ハダカの私は、何がしたかったのだろうかと、 立ちどまるようになりました。

 

「私は何がしたいのか?」

 

そんなある日、友人が 「絵を描いてみたくなった」といって適当に絵の具を買ってきて 好きに絵を描きはじめた姿を見ました。

 

そのとき それを見ていて、ふと、私も描いてみようかな、と思いました。

 

試しに描いてみると、絵筆を持った手が勝手に動き、 まるで体の中から湧き出すように絵が出てきました。

 

体の中には絵がたくさん詰まっていました。 うれしさ、かなしさ、楽しさ、喜び、悩み、おどろき、・・・ そういうものたちが、絵にしてもらうのをうずうずしながら待っていたのです。

 

「絵が描きたかったんだ、私には本当に絵を描くことが必要だったんだ」

 

と、泣きたくなりました。

 

「絵は誰にでも描ける」 ということを見つけた瞬間でもありました。

 

大学のときのように、誰かに見せるためではない。 自分一人のために描いたらいいのだ、と思いました。

 

そうやって絵が描けるようになってから、絵が楽しくて楽しくて、 来る日も来る日も絵を描き続けました。

 

あの日から10年たち、現在も日々絵を描いています。

 

生きていく上で、絵を描くという行為は、 私にとってなくてはならないものです。

 

白いキャンバスは全てを受けとめてくれます。

 

22 23
(注文された絵を描いているところ。絵を描くことは喜びそのものです)

 

絵を描くようになってから

絵が描けるようになってから、自分の絵を初めて額に入れて感動したり、 (→額のページ) お友達から、絵はがきがほしい、画集がほしいと 言われるようになりました。

 

知り合いに画集を作ってもらい、美容室やカフェに置いてもらいました。

 

これは色んな人に読まれたようです。

 

24 25 26 27

 

 

絵を注文されるようになる
28 29
(京都の美容室・アンシャンテさんにオーダーしてもらった絵。 左の絵は、はじめて作った画集の表紙にしました)

 

30
(福岡の公認会計士・山﨑隆弘さんからのオーダー)

 

31
(大阪の香里ヶ丘保育園さんからのオーダー)

 

32
(大阪の病院・あかねレディースクリニックさんからのオーダー)

 

この頃になると、絵はがき・画集を見た人から 「絵(原画)を売ってほしい」と言われることが多くなりました。

 

 

ギャラリー(絵の個展)をするようになる

34 33

 

そして、初めてギャラリーをしました。

 

いきつけの自然食カフェ・マチャプチャレに絵を飾ることになり、 大地堂の漆山さん(額屋さん)がわざわざ絵を飾るのを手伝いに来てくださいました。

 

自然食カフェ・マチャプチャレの紹介 個展の紹介 マチャプチャレに飾った大きな絵の説明 大きな絵の前で、個展をした感想 このカフェでは2年もの間、絵を飾っていただきました。

 

この期間中に、ニューヨークから来たテレビ局の女性が、 絵を見て泣いてしまったとカフェのママから聞きました。 彼女が泊まっているホテルから電話がかかってきたので、絵の感想を聞いてみたら、 絵に感動した、もっとあなたの絵が見たい、 と言ってくれました。

 

わたしは2012年の夏から1年間、アメリカに滞在していたのですが、 行く前、彼女に会いたい、アメリカでも個展をしたい、と思っていました。 後述しますが、この「アメリカで個展をする」という夢は、 2013年の4月にかなえることができたのです。

 

絵が本の表紙になる

35-135-235-335-4
左から、 『こころの天気を感じてごらん』、 『離婚後の共同子育て』、 『アートとしての教育』、『人間中心の教育』
35-535-635-735-8
『創造性について』、 『グロリアと三人のセラピストとともに生きて』、 『グルと弟子の心理学』 『離婚の苦悩から子どもを救い出すために』

 

 

描いた絵が100枚をこえた頃、 絵をホームページに掲載するようになりました。 すると、「絵を本の表紙に使わせてほしい」と連絡がありました。

 

東京のコスモス・ライブラリー出版社の大野さんという方からでした。 お好きな絵を使ってください、と答え、 本の表紙に絵を使っていただけるようになりました。

 

 

びわ湖のカフェで個展をする

39 40 41
この夏に、びわ湖の浜にあるカフェ”Rcafe”に初めて行きました。

 

絵を飾れるスペースがあったので、店長の山田さんに 絵のギャラリーをさせてもらえないかと聞くと、すぐにOKしてくださいました。

 

個展の紹介 個展の紹介2 2ヶ月半の間、遠くは北海道、新潟、福岡から来て下さるかたもあり、本当に感激しました。

 

小学生の男の子が絵のファンになり「絵の描き方を教えて」と言ってくれて、 後日、その子のために絵画教室を開催しました。

 

アートセラピーをするようになる

44
絵を描くようになってから、絵を描くこと自体にセラピー効果があることに気づきました。

 

アートセラピーを勉強しはじめ、集まりをもつようになりました。 好きな色で自由にぬったり、雑誌から好きな写真をさくさく切ったりするのですが、 参加されたかたは、みんな子どものように夢中になっていました。

 

42 43
この集まりをもつようになって、やっぱり絵って楽しいし元気をくれる と確信するようになりました。

 

 

仙台に個展をしにいく

45 46 47 48 49 50
2012年の3月には、仙台の被災者のかたに呼んでいただいて、 絵の個展、アートセラピー、法話会(仏教のやさしいお話)をしてきました。

 

東日本大震災では、わたしも大きな影響を受けました。 1年たって被災地がどうなっているのか、 じっさいに現地のひとびとが、どんな思いを持たれているのか。

 

知り合いのいない初めての仙台でしたが、 ギャラリーには思いがけず多くのかたが来てくださって、 震災についてもくわしく教えてくださいました。

 

(仙台ギャラリーで経験したこと・聞いたことは、 「東日本大震災から1年後の、仙台ギャラリー 」のページでレポートにしてあります。 こちらは仙台で話したご法話の様子です。

 

51 52

 

お坊さんのこと

そのように絵の活動をつづけている間にも、仏教のほうも勉強をつづけました。

 

2010年にはお坊さんになる得度(とくど)に参加して、僧侶になりました。 そして、仏教をもっと研究したいと思い、龍谷大学の大学院(真宗学)に入学しました。

 

修士課程の2年間と博士課程前期の2年間は、 親鸞聖人の本を英訳されたデニス・ヒロタ先生に師事しました。

 

その後は「異宗教間のコミュニケーション」をテーマに研究をつづけ、 2012年夏からアメリカのバークレーに留学しました。 関西国際空港から出発しました。

 

57 53 54 55 56
(留学前の下見に行ったときの写真)

 

こちらは、留学時の様子をとった動画です。

 

アメリカ人にも仏教徒の方がいて、キリスト教、他の宗教の方もたくさんおられ、彼らといろんな話ができたことは大きな収穫でした。

 

アメリカでもお話をするようになり、海外で布教することを考えるようになりました。 こちらはサンフランシスコでお話した仏教法話です。

 

 

また以前から「アメリカで個展をする」という夢がありましたが、 2013年の4月にかなえることができました。

 

56-1

(カリフォルニアで行なった個展の様子)

 

→カリフォルニア個展:参加された方々の感想

 

絵を描いている様子と、個展の告知

 

個展のオープニングパーティーの様子

 

 

これからの夢

2015年の7月から、ブラジルに赴任しました。

 

これからとても楽しみなことは、 ブラジルでたくさんのプレゼントをもらって、 自分がどう変わるか?ということです。 どんな自分に出会えるのかが、楽しみです。

 

布教をしに来させてもらったのですが、 それよりも、はるかに多くのものを、 ブラジルは与えてくれると思います。

 

もっとやわらかく、私をのばしてくれると思うのです。 布教のスタイルも、変わるでしょう。

 

ブラジルに来る前は、 変化した私が、どんな絵を見せてくれるのか、とても楽しみにしていました。

 

そうしたら、ブラジルの景色を見てすぐ、こんな絵を描きました。

絵を描いている様子(ブラジル・サンパウロ市にて)

 

夢だったブラジルでのご法話も行いました。

初めてのご法話(サンパウロ本願寺別院にて)

 

 

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

 

今は、ブラジルで布教をしながら、絵を描いています。

 

こちらでの様子は、ブログやフェイスブックでお伝えしています。

 

よかったら、のぞいてみてくださいね。

 

 

 

ブラジル移住の準備
・ブラジルの”プジン”(pudim)の作り方。 ・ブラジル移住の準備1 ・マチャプチャレに絵を搬入しました  ブラジル出発の一ヶ月前 ・外国の人にも興味を持ってもらえて、すぐに仲良くなれる方法 ・ブラジル移住のため、スーツケースをつめています ・ブラジルに飛ぶ前の、ただいまの心境×3です
とうとう出発、サンパウロへ

・ブラジルへ出発1 ・ブラジルへ出発2 新幹線で事件発生、乗れません。JRで移動してます ・ブラジルへ出発3 新幹線→中部国際セントレア空港 機内持ち込み手荷物で、どたばた ・ブラジルへ出発4 中部国際セントレア空港 → 北京空港 → アブダビ空港 ・ブラジルへ出発5 アブダビ空港 → サンパウロ空港 → ブラジル本願寺別院 ・サンパウロへ向かうフライト中&到着してからとった動画 ・海外旅行でスーツケースをなくさない工夫

到着しました。初めてだらけのブラジル

・寺町二条のトラモントと、ブラジルの食事 ・ブラジルに来て、はじめて大きな絵をかきました ・元気をあたえてくれた、フェーラ(市場)の様子 ・ブラジルに来て初めて描いた、大きな絵の動画

お知らせ

以下にフォロワー登録すると、更新情報が届きます。
TWITTER
FACEBOOK(近況報告)


著書





論文

著書の紹介動画

マスメディア掲載


ヤフーニュース



ニッケイ新聞



JORNAL NIPPAK


ぶっちゃけ寺
テレビ朝日

略歴


久保光雲(くぼ・こううん)


広島出身。画家、僧侶(浄土真宗本願寺派)。京都市立芸術大学(陶芸科)を卒業。陶器製作に加え画家としての活動も始め、関西・仙台・アメリカにて絵画展を開催。龍谷大学大学院博士後期課程(真宗学)単位取得満期退学。2012年からカリフォルニア州の米国仏教大学院に留学。サンフランシスコやバークレーの寺院で法話を行う。2015年7月よりブラジルにて、開教使(海外布教僧侶)として赴任中。

→詳しいプロフィール

リンク


ゼロからわかる浄土真宗

10ページだけ読めば他力信心の世界が理解できるサイト。妙好人や親鸞聖人に興味のある人、一度読むことをおすすめします。

→読んでみる

KOUN18.com