法話 Q、お浄土に行ける自信がありません。どうして他力信心が得られないのでしょうか?
お参りにずっと来られている方から、他力信心について質問を受けることがありますので、その事について話ししようと思います。
「よく法話は聞いたと思うし、よくわかる。でも他力信心を得たのかと言われると、なんかそうじゃない気もするし、ほんまにお浄土に行けるのかというと、なんかあやふやな気がした。どうしたら他力信心が得られるんでしょうか?」
と、そういうことを言われます。
そのことについて考えてみました。
昨日、阿満利麿先生の『無宗教からの歎異抄』っていうね本を読んでいたんですが。
無宗教からの『歎異抄』読解 amazonページ
https://www.amazon.co.jp/dp/4480062378
お念仏の教えというのは法然さまが教えてくださった、そしてそれを親鸞さまが私どもにより分かりやすい他力信心という形で伝えてくださったけど、それまでの仏教とは全然違うわけですよね、もう。修業をして仏になる、というのが当然のことでしたから。
でも修行をしなくてもいい、お念仏一つで救われる、というすごい教えなんですね。しかも決して劣っているわけではない。修行をして仏になるということよりもむしろ素晴らしい。そういう阿弥陀仏の教えである。
しかしそこで目の前に壁が現れてくる。
それはどういうことかというと浄土真宗では、私は凡夫である・たくさんの煩悩を持った身である・欲いっぱいの身であるということを、自分がどのぐらい自覚できるか、どのぐらい自分がそのことをよく分かることができるか。
そしてもうひとつは、阿弥陀さまの救いという、パッと聞いたらおとぎ話みたいにも聞こえるようなことを、どれだけちゃんと自分が受け取ることができるか、ということ。
それらが大きな壁になって立ちはだかると、その本に書いてあったんですね。
その通りだなあと私も思いました。
質問される方も言うんですね、自分が凡夫なのはよく分かります、と。煩悩がたくさんあるのは分かります、と言われるんですが。
そこが、果たしてどこまでそう思っておられるやろうかな、ということなんですね。
その凡夫ということも、今までの自分が持っている道徳とか常識とか自分の考え方とかで、自分なりの受け止め方をしていないか。
自分なりに「ああ悪い奴やなぁ」と思って、それで満足しているというかね。
そして「だから阿弥陀様の救いがあるんだ」ということも、軽く軽く聞いていないかな? ということなんですね。
私が阿弥陀様の教えを聞かせてもらった時に、最初は「阿弥陀様とは誰なんだろうか?」というような、ものすごい他人行儀な感じでした。遠い遠い、初めて聞いた名前いう感じでね。
しかもそれが「親様である、本当の親様である」と言われたときは、しっくり来ませんでした。
でもお話を聞いているうちに、「ああ、お待たせしていたんだなぁ」と、「こういう自分をこそ救うためにご苦労してくださったんだなあ」と思うとね、非常に申し訳ない気持ちになってきました。もったいないなぁというか、申し訳ないという気持ちが起こってきました。
しかもですね、なかなか分からなかったですね。他力信心をを得るということは難しかった。
そしたら、申し訳ない申し訳ないという気持ちが募りましたね。
こういう自分でもそういう気持ちが起こってくるんですね。
そして先生に言われたのは、あなたが地獄に落ちていくのは一人じゃないんだ、ということ。「また阿弥陀様を悲しませることになり、また阿弥陀さまのご苦労を無駄にすることになる、それでもええんか」と言われ、それがすごく胸に答えました。
申し訳ない、ごめんなさい、またご迷惑をかけてしまいますという気持ちが自分の中に起こってきたというか、そういう気持ちになりました。
それはやっぱり、阿弥陀さまの心というものを聞かせていただく。
自分で想像したり、自分でただ納得したり、道理のように聴いてしまうんじゃなくて。本当に心から受け取るということが、この立ちはだかる壁を超えていくことになると思うんですね。
阿弥陀さまのこと、そして私が凡夫だと言われていることを、そのままいただく。
でも、むしろね、自分の考えとか自分の枠に無理やり入れて聞こうとする態度になっちゃうんですね、私たちは。今までの生き方がそうだったから。今までの仕事とか学問とかそういうもんだったから。
でも仏教は違うんですね。そのまま受け取らしてもらうという風に聞きなさいよーと、私は言われましたね。「阿弥陀様の教えにあなたの手垢をつけるな」と言われました。
そういうことも皆さんに考えて頂きたいなと思って、今日は「どうして他力信心が得られないだろう」という問いに答えてみました。
(西本願寺ブラジル別院 2018.4)