法話 自力の「おまかせ」、他力の「おまかせ」
「信心の定まる時、往生また定まるなり」
今拝読させていただきましたのは、親鸞聖人の御消息(手紙)にあるお言葉です。「他力信心が定まる時に、往生がまた定まるのである」ということなんですね。
今日はですね、このことを引用して大峯顕先生が書いておられたことがとても素晴らしかったので、お話ししようと思います。
残念なことに大峯先生は、今年の1月にお亡くなりになったんですね。私は密かにショックを受けておりました。
みなさんも、この先生の書かれた本は好きだなーとか、しっくりくるなぁとかあ、というのがあると思うんですが、私にとって大峯先生はそのお一人あったんですね。
でもご縁がなくて、本は喜んで読んでおりましたが、お会いすることはなかったんですね。
大峯先生は哲学者でありお坊さんでもあって、また俳句も詠まれていたんです。俳人ですね。
それも片手間に俳句を詠んでいたのではなく、本に書かれていたんですが、もう本気でね、この3つに力を打ち込んできたと。やはり素晴らしいなぁと、思っておりました。
私が好きだったのは、俳人であられますから、書き方とか文章の感じが詩的なんですね。ロマンチックといったらおかしいかもしれないですけど、綺麗なんですね。
たとえば私が好きだなあと思ったのは、『なんまんだぶ』について大峯先生が書かれていたことです。
「私たちは『なんまんだぶつ、なんまんだぶつ』とお念仏いたしますが、私の気持ちはコロコロ変わります。だから、砂を噛むような、もうただ『なんまんだぶ、なんまんだぶ』と言ってる時もあるし、時にはありがたく『なんまんだぶ』というときもある。また仕方なく『なんまんだぶ』と言わないといけないときもある。こっちはいろいろですね。
でも大峯先生がですね、『なんまんだぶ』って言った時には私の気持ちは関係なく、阿弥陀様と砂の数ほどの諸仏方が、なんまんだぶなんまんだぶと常にこの大宇宙を大合唱してあの満たしている。だからどんな時でも、私が『なんまんだぶつ』といった時は、その大合唱の一員、大きなコーラスの一員に入らせてもらってるんだと、そういうふうに書いてあったんですね。
ああ素敵だなぁと思って、念仏するのがすごく好きになりました。
そういう感じで私は大好きだったんです。
その先生が書かれた『浄土和讃を読む』という本に、このように書いてありました。
浄土真宗の聞法についてですが、
「座布団の上に座ってぼんやりお説教を聞くのが浄土真宗なのではありません。
たとえ座布団の上にいても、信心というのはやはり自分を捨てることです。いささかも自分を頼むということがなく、阿弥陀様に100%まかせるのが他力の信心です。そうなればもうお浄土に生まれることは間違いない。信心の定まる時、往生また定まるなりと、親鸞聖人の御消息(お手紙)にある通りです。だからお助けははっきりとこの世にあるのです。この一番大事なことをどこか曖昧にして死んだら何か起こるようなつもりでいる人が多いのですが、信心の無い人には死んでも何も起こりません」
お浄土に迎え取られる約束は死んだときに決まるのではなく、信を頂いた時に決まるというのですね。大変に厳しいお言葉であると思うんですけれども、100%阿弥陀様に任せるのが他力の信心ですよ、と。そして信をいただいた時に往生は決まってしまうのだ、とね、書いてあるんですね。
それでこの「任せる」という言葉がね、難しいとこだと思うんです。
「私は阿弥陀様にお任せします」と自分で言うのは、これは自力ですね。自分が決めているんです。自分が任せる、とね。
そうではない。100%っていうことは自分が任せるんじゃないですね。阿弥陀様が「任せよ、任せよ、私に任せなさい」と言っておられるんですね。そのことを私が聞かせていただく。任せようと言ってくださってるんやなぁ、と。そしてそのことが本当に受け止められた時、信を頂いた時にですね、いつのまにか任せる心境になってるんですよね。自分がしたわけじゃないんです、もうお任せしきった心がなぜか起こって。これは自分の力じゃない。阿弥陀さまの力。
そのことが南無阿弥陀仏のお働きによって、私たちにね、いただける。そういうことなんですね。
この100%お任せするのが他力の信心です。任せるというのは自分が決めるんじゃないんですよ。そういう状態にさせていただくんだということをね、今日はお話ししたいと思いました。
(西本願寺ブラジル別院 2018.6)
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