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法話 パスカルの賭けと大乗非仏説

法話 パスカルの賭けと大乗非仏説

 

 

  「たとい法然上人にすかされ参らせて
   念仏して地獄に落ちたりとも
   さらに後悔すべからず」

 

ただいま拝読いたしましたのは『歎異抄』の中で、親鸞さまが「たとえ先生である法然上人に騙され、お念仏して地獄に落ちたとしてもさらに後悔することはない」と言われている、有名な箇所なんです。

 

今日は質問をもらいましたので、そのことについてお話しさせてもらうと思います。

 

私の友人がこんなふうに言ってくれたんですね。

「これまで小さい時からご法話を聞いてきました。お釈迦様のことが好きでね。
でもある本を読んだら、実はお釈迦様は『大無量寿経』というものを直接自分の口で説いてはいない、と。後世の人間によって作られたものだ(大乗非仏説)、と。それを読んでから、お釈迦さま以外の人間に作られたものだったのかと思うと、いてもたってもいられなくなった。」
 
というんです。

 

このお話を聞いてね「あーなるほどなあ、気持ちわかるなぁ」と思ったんですね。

 

私は浄土真宗と出会う前まで、キリスト教のプロテスタントの教えを聞いておりました。それで中学と高校の6年間、プロテスタントの中にいたんですが、最初は楽しくてとても面白かった。聖書が大好きだった。

 

でも、だんだんとですね、神様は本当にいるのか? という気持ちがしてきたんですね。4年目ぐらいから。

 

そして「神様はいないんじゃないの?」「神様はいないのに、私は何やってるんだろうか」という気持ちでいっぱいになってきたんですね。そうなってくるともう、ちょっと聞きづらくなってきました。それには、明快な答えというものがもらえなかった、という理由もあります。

 

それでいろいろ読みまして、こういうのもありましたね。
とても有名な「パスカルの賭け」というものがあります。

 

パスカルの賭け wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%81%AE%E8%B3%AD%E3%81%91

 

17世紀の人ですが、その17世紀の頃にキリスト教ですでに「神様はいないんじゃないか」という人がいたんですよ。それに対してねパスカルが『パンセ』という本の中で、次のように言っているわけなんです。

 

「神様はいるのか、いないのか。これに私たちは、もう、賭けるしかないんだと。今は生きてるが、いつかは死ぬんだから、どうせだったら神様がいる方にかけるのがいい」という話なんですよ。

 

もしも「神様は絶対いない」と言ったとして、それで死んだ後に「あー、やっぱりいなかった」と言ってもね、何も得るものはなくて辛い気持ちがするだけである、と。

 

それよりは、いるかどうか分からないのだったら、神様がいる方に私は賭けると思って、そして本当に神様がいたらラッキーだし、もしダメだったら元々ダメなんだから何も失う物はない、と。
そういう話なんです。

 

別に、これがキリスト教の信仰の姿というわけではないんですが、まあ一つのお勧めなんですよね。

 

私はこれを読んで「なるほどなぁ」と思いましたけど、でもなんか納得がいかないという感じがしました。

 

その後に私が浄土真宗に心を惹かれたのは、そこのところがはっきりしている、ということなんですね。例えば「阿弥陀仏がいるのか、いないのか」っていうこと。

 

このことは私が浄土真宗に出会ったとき、”お餅”に例えて説明されたんです。

 

例えば、お餅を知らない人に、お餅がどういうものなのかを説明するとします。

 

お餅って、私はアメリカで英語を勉強してびっくりしましたが rice cakes というんですね。お米のケーキ。でもお米のケーキと聞いても、それだけではどういうものか分からないですね。

 

ここでちょっと想像してください。お餅を見たことないアメリカ人に、お餅のことを説明するとします。

「お餅はスープに入れても美味しいんだ。
 でも、砂糖をかけても美味しいんだ。
 揚げてもいい。
 で、すごく伸びるんだ。
 冷めたら固くなるんだ。
 でも、もう熱を入れるとまた伸びるんだ」

と、色々言っても、きっと分からないですね。

 

そのアメリカ人が、仮にね、一生懸命に本を読んで、餅について歴史を調べるとします。

 

餅がいかに重要な役割を果たしてきたか、日本の歴史でいかに大事なものであったかということを調べる。また食べたことがある人が書いた餅体験記を読む。

 

それで「なるほど、餅とはこういうものなのか」「餅というのはこういうもので、確かに日本にあるらしい」と思ったところで、餅を知ったことにはならないということなんです。

 

浄土真宗の教えというのは、餅を食べないと分からない。

 

もういつまでも調べてね、色々どうこう言うても、結局「あなたは餅を食べたのか、それとも食べてないのか」ということなんですよ。食べさえしたら、餅っていうものがどんなものなのか、もう説明も何もいらないですね。餅は餅なんですよ。

 

これが最初にお話しいたしました、親鸞さまが「法然さまにだまされて念仏しても後悔しない」と、そういうところなんですね。これは別に「ご恩のある先生だから私はだまされてもいいんだ、もともとダメなんだから」ということじゃないんです。

 

親鸞さまはもう他力信心という餅を食べてますから、たとえ法然さまが現れて「すまない、実は阿弥陀様のことはウソだったんだ。私が作った話だ」と言われても、餅を食べてしまったからには何も揺らぐものはないんですよ。そういうことなんですね。

 

今日は浄土真宗のご信心についてお餅で話をさせてもらいました。

 

(西本願寺ブラジル別院 2018.6)

 

 

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略歴


久保光雲(くぼ・こううん)


広島出身。画家、僧侶(浄土真宗本願寺派)。京都市立芸術大学(陶芸科)を卒業。陶器製作に加え画家としての活動も始め、関西・仙台・アメリカにて絵画展を開催。龍谷大学大学院博士後期課程(真宗学)単位取得満期退学。2012年からカリフォルニア州の米国仏教大学院に留学。サンフランシスコやバークレーの寺院で法話を行う。2015年7月よりブラジルにて、開教使(海外布教僧侶)として赴任中。

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10ページだけ読めば他力信心の世界が理解できるサイト。妙好人や親鸞聖人に興味のある人、一度読むことをおすすめします。

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