法話 闡提(せんだい)の救済
善男子、たとえば父母の所愛の子を捨てて終亡すれば、父母は愁悩して命をともにせんと願うごとく。菩薩もまた爾(しか)なり。一闡提(いっせんだい)の地獄に墮するを見て、またともに地獄に生ぜんと願う。何をもっての故に。この一闡提にして、もしくは受苦の時、あるいは一念の改悔の心を生ぜば、我すなわちまさに為に種種の法を説き、彼をして一念の善根を生ずることを得しむべし。是の故に此の地をまた一子を名づく。
ただいま読みましたのは『大般涅槃経』からの一節です。これは、繰り返し読むと、とても美しい愛情に満ちた箇所なんですね。
今日は「親が子供を亡くす悲しみ」から味あわせて頂きたいんですけれども。
平日に法要を申し込まれる方で、もう3回目になる方がおられて。とても若い時に息子さんが18歳で亡くなられた方がいらっしゃるんですね。
いつもお母さんともう一人の息子さんが来られるんです。18歳の時のお写真を持って。おそらくお兄ちゃんやと思うんですけど、顔がよく似てらっしゃる。
お写真の18歳で亡くなった方は、とてもハンサムで自慢の息子さんだったと思うんですが。いつもお経をあげますと、お母さんは泣かれるんですね。
で、最後に少しお話をするんですが、やっぱり「子供を亡くす悲しみというのは、もう、全く消えません」と。年がたっても全く消えることはありません、と言われるんです。
私も子供がおりますので、親になって初めて、その気持ちを感じるわけです。
小さい時に「色んな親不幸があるけれども、親よりね先に死ぬ、これこそ最もひどい親子である」と言われましたが。子供の時は分からなかったですね。親より先に亡くなるということが、どういうことなのか。
でも今ですね、しみじみ子供を見ながら、それを味わうわけです。もうどんな状態でもいいから生きておいてもらいたい、という気持ちが、子供に対してあります。
で、最初読ませてもらった『涅槃経』の箇所は、これと同じようなことを言っておるんですね。
お父さんお母さんがとても愛していた子供が亡くなった。そうすると、お父さんお母さんはとても悲しい。苦悩して、もう、この子と一緒に死にたい、この子と一緒のところに行きたいと願う。
それは修行されていた阿弥陀様も同じである、と。
ここに「一闡提(いっせんだい)」という言葉があるんですが、一闡提(いっせんだい)というのは私たちのことなんです。
欲望によってできている者。欲の塊。そういう仏法と縁の無い者。
そういう者が地獄に堕ちていくのを見られて、阿弥陀様は「ともに地獄に生まれたい、一緒に地獄に行きたい」と、そう思われるんです。
なぜ「地獄に行こう」と思われるのか。そしてどうして一緒に落ちてくださるのかと言いますと、それはですね。
私(一闡提)は欲の塊ですけれども、苦しみの余り「どうして仏法を聞いておかなかったんだろうか」という懺悔の心が少しでも起きた時があったら、その時を逃さず、色んな方法をもって、仏法聞きなさいよというふうに説くチャンスを狙っておられる。そのために一緒に地獄に落ちてくださる、というんですね。
ですからもう、私たちは阿弥陀様のひとり子なんです。
たった一人の子供が仏法も聞かずに落ちていく・・・、そしたら親としては「ああ、落ちたなあ」と眺めてるわけじゃないんですね。一緒に落ちていく。そして、なんとか、なんとかと、くっついて「聞いてくれよ、聞いてくれよ」と願い続けておられるわけなんです。
そのことに対して、私たちはのほほんとしてたらダメなわけなんですね。しっかり聞かしてもらわないと。
そして私が今こうやって人間として生まれているわけなんですが、これは不思議なことだと思いませんか?
いいことが何もできなかったはずなのに、なぜか地獄から離れて、私は人間として生まれている。これは阿弥陀様がすごく長い時間をかけて、何劫という時間をかけて私のために南無阿弥陀仏を作ってくださった、その御苦労の多くは、この何も良いことができない私を人間に生まれさせるためだったんです。
とにかく、まずは人間に生まれてもらわないと仏法が聞いてもらえない。そこに大きな力がかかって、そのおかげで私たちは生まれさせてもらっているわけなんですね。
それなのに仏法に触れず、ご信心をいただくこともなく亡くなる。そういうことがあったら本当に申し訳ないことですね。そういうお父さんお母さん(親)の気持ちを想像すること、考えてみることで、仏様の想いをどうか考えてみていただきたいなぁ、と思いました。
(西本願寺ブラジル別院 2018.5)