第一章 第二節 ウイリアム・ジェイムズの生涯
まずジェイムズの生涯を俯瞰するに当たり、高木きよ子の『ウィリアム・ジェイムズの宗教思想』より参照する〈3〉。
ウィリアム・ジェイムズは、一八四二年一月十一日にニューヨークで生まれた。彼は体質的には病弱であった。父ヘンリー・ジェイムズ(一八一一~一八八二)と母メリー・ワルシュ・ジェイムズ(一八一〇~一八八二)の下で、五人兄弟の長男としてニューヨーク市に生まれた。次男は著名な小説家で父親と同じ名前を持つヘンリー・ジェイムズである。ジェイムズとヘンリーは生涯を通じて仲が良く、お互いの仕事に影響を与え合った。その下にウィルキンソン、ロバートソンという二人の弟がいた。南北戦争に参加し、心身ともに負傷をした二人は、二人の兄に比べるとひっそりと人生を過ごしたようである。末には妹のアリスがいたが常に病身であった。
祖父の名前は同じくウィリアム・ジェイムズと言い、ジェイムズ家の思想に多大な影響を与えている。 祖父ウィリアムはアイルランドのカーヴァン州から一七八九年にアメリカにやってきた。当時、彼は十八歳であったが、独立戦争後のアメリカが資本主義国家として歩み出していることを見据えていた。そして製塩業に携わり、四十年間で巨額の財産を築いていった。アイリッシュの精神をもち、宗教的には熱心なカルヴィニズムの信者であった。彼の残した財産が子孫に対して大きな力を持った。そして宗教的にも賛否を含め、与えた影響は強大であった。祖父ウィリアムは長老派教会の中心的人物であった。彼は三〇〇万ドルもの遺産を残したので、子孫はその恩恵によって豊かな暮らしを営むことができた。
父ヘンリーは祖父ウィリアムの四男に当たる。祖父ウィリアムのカルヴィニズムに反対して霊的な世を求めた。形式的で儀式と教会の権威で抑えつけられるような信仰に、非常に反発したのである。父ヘンリーは青年時代の事故によって片足が不自由であった。そのこともあり、彼は一生定職につくことはなかったが、祖父ウィリアムの残した財産によって充分に裕福な生活を送ることができた。そのことは、父ヘンリーがつねに子供の成長へ目を注ぎ、子供の教育のために海外に移動することを可能にした。
父ヘンリーは常に神と自分との直接的な体験に興味を示し、学んでいった。その結果、あるとき神秘的な体験を持った。そして霊的体験を持つスウェーデンボルグの思想に出会い傾倒していった。徹底したスピリチュアリズムであり、神の愛と人間が直接結びつくことに心魅かれたのである。その後、エマソンを通じて超越論運動にも関わった。一八八五年から一八八六年にかけて父ヘンリーは、ボストンのパーカークラブで開催されていた哲学者や文人の集まりである土曜クラブに参加していた。当時の参加者は、エマソン、ラルフ・ウォルド・エマーソン、ホーソン、ロングフェロー、ソーロー、サッカレイ、ホイットマン、テオドル・パーカーなどがいた。のちに、十九世紀にアメリカに伝えられたフーリエの理想社会思想に魅かれていった。ジェイムズは異なる思想を持った祖父と父親の二人に影響を受けて成長したのである。
祖父の財産のおかげで、生まれた時のアメリカは不況の時代であったのに、ジェイムズはほとんど影響を受けずに育った。ジェイムズは教育の大半をヨーロッパで受けた。当時のアメリカの教育は宗教教育が中心であり、父ヘンリーはそのことに批判的であったように見える。ジェイムズもヘンリーも一般的な学校教育を受けることはなかった。しかし、ジェイムズはヨーロッパの考えを十分に吸収し、批判的精神をも身につけていたのである。ジェイムズは家庭的にも恵まれ、物質的にも豊かな環境の中で成長することができた。
ジェイムズはハーバード大学に入学するまで、ヨーロッパで六年あまり過ごしている。そのため、フランス語、イタリア語に精通していた。多くのフランス語の論文を発表したため、学者として著名になるのも早かったと言われている。
フランスで生活していたおりに、ルーブル美術館に足を運び、そのことからジェイムズは芸術に目覚めていった。ジェイムズは画家を志すようになった。しかしそれは、父ヘンリーの思惑から外れていた。彼は息子を科学者にしたいと思っていたのである。しかしジェイムズは絵画を習っていくうちに、自分には向いていない仕事であると感じるようになる。
画家になることから思いを変え、一八六一年にハーバード大学ローレンス科学校へと入学する。当時、一番影響を受けたのは、生物学科のルイ・アガッシ(一八〇七~一八七三)であった。自然科学に対する薫陶を受け、研究においては何よりも具体的事実に忠実になることを学ぶ。体調不良により一時は退学したが、のちに医学部に入学する。
その後はドイツにおいて十八カ月の留学生活を送る。ベルリンではその時期にベルリン大学に通う。当時ジェイムズは既に親しんでいたドイツ語を完璧に学び、ドイツ的思考を身につけている。この期間に哲学に傾倒していった。特に影響を受けたのは、フランスのシャルル・ルヌービエ(一八一五~一九〇三)の哲学である。その影響は大きく、ルヌービエとの出会いがジェイムズを変えた。しかし、ジェイムズは哲学の道は選ばず、心理学の道を歩む。
ドイツから戻ると、生理学科での勉強を続け無事大学を卒業した。一時的に彼は非常に健やかな精神状態となったが、その後持病である眼の病気がさらに悪くなり、気力を失う。人生に対する苦悩に打ちのめされた時、危機を救ったものの一つに聖書の言葉があった。この時にジェイムズが感じた「目に見えないものの存在」との体験を『宗教的経験の諸相』にあらわしている。しかし聖書だけがジェイムズの危機を救ったわけではない。ルヌービエの道徳哲学が彼を助けたのである。またジェイムズはこの存在を神とは限定していない。むしろ従来のキリスト教の枠から外れた超越した何者かとの宗教体験であったように彼は示している。その後ジェイムズは精神的な安定を取り戻す。
三〇歳のときにハーバード大学の講師として解剖学や生理学の授業を担当した。しかしジェイムズには医学よりも心理学、哲学を教えたいという思いがあった。一八七八年にハーバードに大学院ができ、ジェイムズはそこで教えるようになった。またこの年、ジェイムズは三十六歳でアリス・H・ギベンズと結婚した。この結婚がジェイムズに与えた精神的安定は大きかった。この年に『心理学原理』を起稿している。
当時のハーバードの哲学はキリスト教の信仰を中心とした考え方であった。ジェイムズはそれに反して、経験を重んじて人間を中心とした哲学を切り開こうとしていた。一八八〇年には、生理学科から哲学科の助教授となる。一八八二年から一八八三年にかけては学者に会うことを中心にした。ジェイムズはその人の学問よりも人格に力点を置いて学者を理解している。ヨーロッパの学者訪問を通じて、ジェイムズは自らの学問が決してヨーロッパの学者に引けを取らないことを発見した。
一八九〇年に出版された『心理学原理』は近代心理学の基礎となる内容である。この頃からジェイムズの論文は哲学に関するものが多くなる。一八九七年には『信じようとする意志』を出版する。これは信仰についての論文集であり、宗教に対する彼の人間観が明らかにされている。ここにはプラグマティズムの思想が現れている。知性に対して信念を、理論よりも実践に重要性を置くものである。そして伝統的なキリスト教の信仰を盲目的に信じている人には、もっと宗教に疑問を持つことを伝え、文明と科学によって宗教から遠ざかる人には、宗教の持つ可能性を示しているのである。この本の後、プラグマティズムを提唱しつつ、彼独自の立場である根本的経験論を発展させた。一九〇〇年代にジェイムズは哲学者として大成してきた。
ジェイムズの『宗教的経験の諸相』が出版されたのは一九〇二年である。一九〇一年から一九〇二年にエディンバラ大学で行われた二十回にわたるギフォード講義を、一回終わるごとに原稿が印刷したもので、この講義の最終日一九〇二年の六月九日には初版が出ている。宗教が神や教会、聖書が語るべき内容であったのに対して、人間からの現象として取り上げた初めての試みであった。
一九〇七年に『プラグマティズム』を出版し、プラグマティズムをより詳しく説明した『真理の意味』、『多元的宇宙』は一九〇九年に刊行された。
晩年のジェイムズは仕事で多忙を極めていた。最後の講演はオックスフォード大学で行われた。多くの著作と講演をこなしてきたジェイムズは、持病であった心臓の病が大きく進行し、一九一〇年八月に六十八歳で生涯を終えた。