第一章 第五節 第二項 『宗教的経験の諸相』に対する批判
ジェイムズに対する典型的な批判は、「個人の宗教」と「制度的宗教」を分けて、個人の宗教的な体験のみ重視したという点である。そのことによって宗教の歴史的、社会的側面を無視したという指摘である。
堀は、ジェイムズに対する批判をこのように説明する〈15〉。
この書物が主として「宗教的という以外の形容に誰も誘惑を感じないような」経験、つまり「最も偏った、最も誇張された、最も強度の宗教的経験」の実例を引きながら、それに心理学的、および哲学的考察を加えたものであることはよく知られている。そのため少なからぬ批判として、そこで扱われる素材が「宗教的天才」たちの証言に偏り、普通の人々の生活のあり方とは乖離した議論になっているという指摘があるのも事実である。
つまり、ジェイムズが取り上げた宗教的体験は有名な宗教的天才に偏っており、誇張された強度な体験であって、それは普通の人々にとっては遠く離れた世界であり相容れるものではない、という指摘である。
また高木きよ子は、ジェイムズの弱点を次のように指摘する〈16〉。
近年の文化学諸分野の発達と展開は、宗教を文化現象のひとつとしてとらえる。この角度からみると、自然、人間、社会という三つの要素が複雑にからみあっている場に、宗教はおかれている。また、個人は、必ず、社会、文化の諸関係のもとに考えられねばならない。したがって、宗教を個人的な現象としてとらえる場合にも、これをたんに、個人の行動とか態度という点にのみ、しぼってしまうことはできない。個人の現象は、社会・文化との接触のもとにおこなわれるから、社会・文化との関係をみることが必要である。
反対に、社会現象、文化現象としての宗教にも、その担い手である個人は、多かれ少なかれ、影響をもっている。このような立場にたって宗教をあつかうのが人文科学における宗教のとりあつかい方である。最近の人格心理学や社会心理学、あるいは文化人類学の成果は、これら諸分野の交錯した現象として宗教現象をとらえている。しかし、ジェイムズについてみると、宗教が、まったく個人の問題に限られている。社会、文化の面にはほとんどふれられていない。
高木は、個人の現象は社会、文化との接触があって初めて起こってくるものであるから、個人の体験を切り離して考えることはできない、というのである。現代では宗教は一つの文化現象として捉えられ、人格心理学、社会心理学、文化人類学などとの研究とあいまって進められるが、ジェイムズにはそういった観点はなかったのであるという。しかし、社会、文化に全く触れず個人の体験に絞って研究するということは不完全な研究に陥る、と高木はいう〈17〉。
宗教的生活は慣習的な二番煎じのものでは意味がなく、そのようなものの根源的な経験をみるのではなくてはだめだ、というのが、ジェイムズが「宗教経験の諸相」においてとった態度である。彼が個人的な手記や伝記を資料にしたのは、そうした生々しい体験を通してでなければ生きた宗教の姿はわからないと考えたからである。このように、人間の問題としての宗教を重視するあまり、個人偏重にすぎたきらいがある。
これは、おそらく、ジェイムズにとっては、宗教を形而上的領域からおろして、人間の側にもってきて、人間の経験に出発し、人間の行動においてとらえることが重大であり、そこに、まず、焦点がおかれたからであろう。そして、そのあまり、個人に問題を集中しすぎたのであろう。
しかしここに、ジェイムズの宗教思想のもつひとつの弱点はみのがせない。ジェイムズの時代には、まだ、人文科学、社会科学の分野は、今日のように展開していなかった。したがって、一概に、その長短を決することは、あるいは、妥当ではないかもしれない。しかし、それにしても、ジェイムズの考え方が、個人偏重にすぎている点は指摘されねばならぬであろう。
高木は、ジェイムズが宗教を形而上的領域から、人間の経験と行動において捉えることが重大であると考えた故に、個人に問題が集中しすぎたのだという。そしてそのことが、ジェイムズの一つの欠点であるというのである。
テイラーは、本章第四節第一項で述べたようにジェイムズを高く評価しながらも、ジェイムズの盲点について語る〈18〉。
もちろんこう言っても、ジェイムズがそのテーマを理解する仕方にかんして疑義がまったく申し立てられないということではない。疑問は実際に生じうる。しかし、それは彼とわたしたちの間にある時代の違いのせいでは全然ない。むしろこれらの問題は宗教についての理解の仕方そのものの相違から生じているのであり、それは彼の時代でも、今の時代でも同じように対立している論点である。少々論争的な言い方をするならば、ジェイムズの宗教の見解のなかにはいくつかのの盲点があるのだ、と主張することもできる。ただし、これらの盲点は現代世界においても広く広がっている。それは彼の時代と同じくらいわたしたちの時代でも影響を及ぼしている考え方である。
テイラーはジェイムズの宗教の理解の仕方そのものに問題があり、それは時代の問題ではなく、今の時代でも同じように対立している論点であるという。そしてそれはジェイムズの盲点でもあるし、現代においても広がっていることだという〈19〉。
ジェイムズの宗教理解と現代文化のいくつかの面がぴったりと 重なっているという事実のみから、彼の著書を評価すると、彼が宗教的経験として描いたことが宗教の今日とりうる唯一の形であると誤解されてしまう恐れを生む。
テイラーは、ジェイムズの記した宗教的経験が今日的な宗教の唯一の形式であるという考えは誤解である、という。そしてテイラーは、さらに詳しくジェイムズの盲点について述べる〈20〉。
それでは、ジェイムズは何を間違えたのか、あるいは少なくとも歪曲したのだろうか。この問いに答えるための適切な出発点の一つは、彼が自認していることにかかわっている。彼は宗教の理解にかんしては、プロテスタントの伝統のなかにいる。それゆえ彼が理解に苦労するものの一つは、カトリシズムである。彼の幅広い共感は、例えば話がアビラの聖テレサになるとあまり役に立たない。アビラの聖テレサは彼の議論の素材を提供する一人であるから、彼は長々と彼女を引用するが、別の箇所では少々いらだって、「彼女の宗教の中心的な考えには―こう言っても不敬でなければ―宗教というものを信者と神との間での際限ない恋愛ごっこにしてしまうようなところがある」と言っている。
ジェイムズが育った環境はアメリカの大部分がそうであるように、プロテスタントであり、カトリックの信者はまわりに少なかった。それゆえにカトリックの信仰に対して理解が欠けるところがあった。それもジェイムズの欠点といえるのだという。よって、カトリックで著名な聖テレサの信仰の喜びについては理解に苦労している部分がある、とテイラーはいう。
これ以上に重要なことは、彼がある種の個人主義の限界を超えられないことである。彼は教会が必要であることをたしかに容認している。教会以外の方法で、特定の激しい経験を取り巻く一連の洞察を伝えることができるだろうか。教会以外の方法で、他の人々をその洞察のなかに導き入れることができるだろうか。教会以外の方法で、信仰に従った行動をとるために信者を組織することができるだろうか。当然、宗教がそのように「二番煎じ」になるときは、不可避的に何かが失われるであろうが、だからといってそれ以外の方法では何も伝わらないであろう。〈21〉
テイラーは、ジェイムズがある種の個人主義の限界を超えられないという。なぜならば、ジェイムズの大事にするところの個人的な宗教的体験が起こったとしても、教会との関わりを全く持たずして、他の人々をその洞察へ導くことなどは難しいという。もちろん、教会という場所を介在させることによって、個人的経験の中の何かが失われるだろう、とテイラーはいう。しかし、個人的な宗教的経験を持ったにしても、教会と関わることがなければ、洞察を伝えたり、信仰に従って信者を組織するなどが出来ないのではないか、とテイラーは批判するのである。
しかし本章第三節において堀の見解を確認したように、ジェイムズは社会状況や教会の事情をまるで無視をしていたわけではなかった。筆者はジェイムズは、教会や社会という組織を見据えた上で、それを一度取り除いた上でみえてくる、個人と超越者の個人的な経験に敢えて注目したと考察する。少なくとも個人的経験に対するジェイムズの方法論は間違いなく高く評価されており、本研究において獲信の問題に適用することは充分に有効であると考える。