第一章 第五節 『宗教的経験の諸相』の批判的検討
第一項 『宗教的経験の諸相』についての評価
ジェイムズが『宗教的経験の諸相』を記したことで初めて、宗教的経験という概念が人々の間に植え付けられた。それまで宗教とは、キリスト教に限って言うならば、神であり、聖書、神学、教会、儀式であった。そこに個人と神との関わりが重要視されることはなかったのである。
『宗教的経験の諸相』は、ギフォード講義の直後に出版された。同書は多くの人に読まれ、反響を呼んだ。同書の日本語訳者である桝田啓三郎は次のように述べる〈10〉。
この講義の原稿は、ジェイムズが第二回の講義のためアメリカを立つ前に印刷に回されていたので、彼が講義を終えてケンブリッジに帰ったときには、『宗教的経験の諸相―人間性の研究』という題名ですでに出版されていた。この書物も、講義と同様に、大成功をおさめ、驚くべき売れ行きを示した。
ギフォード講義の内容を記した『宗教的経験の諸相』は初版より大変な売れ行きを見せたのである。本は当時、高価なものであったにもかかわらずよく売れて、ジェイムズは多くの手紙を受け取ったのである。それはアメリカの学者だけでなくヨーロッパの学者をも惹きつけ、絶賛された。桝田はフランスの哲学者アンリ・ベルグソン(一八五九~一九四一)が一九〇三年一月六日に送った手紙の一部をあげ、ベルグソンの受けた深い感銘をとりあげている〈11〉。ベルグソンは『宗教的経験の諸相』に深い感動を受け、この書物が時代の宗教観念としての先駆となるべきものであり、ジェイムズは宗教的情緒の真髄を摘出することに成功したと評価した。次々に読者に全体的印象を与え、読者の心の中で融合させた、という。それによって、宗教的な喜びが高次元の力の持ち主との合一の意識である、ということを表現できたというのである。
さらに桝田はチャールズ・サンダース・パース(一八三九~一九一四)の評価を引用する。パースによるとジェイムズは芸術家であるというのである〈12〉。
人間の神秘な心の深層がどのように捉えられているかは本書の叙述が何より雄弁に物語っている。だからこそ、人としての気質を異にし、学者としての資質の違いから異なる方向に進んだパースも、この書を、「人間の心の洞察 “penetration into the hearts of people” のゆえに」、ジェイムズの書物の中でも「最善のもの」であると高く評価し、ジェイムズを「人間の魂を描くことのできた芸術家」であるとたたえたのである。
パースはこの『宗教的経験の諸相』をジェイムズの中でもっとも優れたものであるといい、その深みを描くことができたジェイムズを芸術家であるというのである。
実際のところ『宗教的経験の諸相』は、ジェイムズのユーモアのある語り口が含まれ、個人の魅力ある体験が中心であることによって、宗教や哲学の専門家でなくても理解できる内容となっている。個人の個性豊かで生命力溢れる体験は読者を引き付けてやまないのであろう。それまで試みられたことのない、個人の宗教的な体験を取り上げるという難解な課題へ挑みながらも、発行当初から多くの人を魅了したジェイムズは芸術家ともいえるであろう。
また一九九九年に、カナダの政治哲学者チャールズ・テイラー(一九三一~)は、ジェイムズの『宗教的経験の諸相』に触発を受けて、「世俗の時代」というテーマでジェイムズと同じようにギフォード講義を行った。その後『今日の宗教の諸相(Valieties of religion today)』という書を出版し、そのまえがきにおいてテイラーは、このようにジェイムズを評価する〈13〉。
わたしは自分が今やこの草分けともいえる先行者の足跡をたどっているのだという意識を覚えずにはいられなかったが、この意識はとくに、ジェイムズの著作の頁を追うごとに、(文体や参考事例を別にすれば)この本がほぼ百年前に書かれたというよりも、昨日書かれたものといってもおかしくないのではないか、という強烈な印象が繰り返し襲ってくることで強められることになった。
テイラーは同書を、百年前に書かれたとは思えないほどであるといい、現代の宗教の諸問題と一致していることを強く感じ、高く評価している。またテイラーは「ジェイムズは恐ろしいほどに我々の同世代人である」〈14〉という。
このことより、同書は百年を超えてもなお、新鮮味、驚き、共感を失わないものであることがわかる。筆者はその理由を、ジェイムズが扱った内容が、人間の根本的な本質とかかわる宗教的な体験を扱ったことにあると考察する。いくら時代が変容しても人間の本質部分は変わらないものである。個人的な差はあれど、孤独であり、死に脅え、欲望が満たされないことに苦悩する。ジェイムズはその本質に向き合っていたからこそ、同書が時代を超え共感と示唆を与え続けるのである。