第一章 第六節 第二項 病める魂
病める魂の持ち主というのは、生まれながらに自省する心が強く、自分は罪深いという意識から抜けられない人である。人生の本質は悪である、という見方をする。また人生について救いようのない憂鬱におそわれたり、恐怖感からぬけられない。ジェイムズはこのように言う〈27〉。
世のなかにはまた、そういう人々とは違って、悪というものを、主体と特殊な外的事物との関係であるばかりでなく、もっと根本的で一般的なあるもの、自己の本質のうちにある不正ないし悪徳であって、環境を改めても、内的な自己をうわべだけどんなに列べ変えてみても癒やすことができず、なにか超自然的な治療を必要とするものとみなすような人々もいる。
ジェイムズは、病める魂を持つ人は根本的に解決できない悪を持っており、何か、この世を超越したものでなくては苦しみを解決出来ない人たちであるという。
テイラーはこの病める魂が持つ苦悩を、憂鬱、恐怖、罪深さの三つに分けて説明する〈28〉。
第一の形は、宗教的憂鬱(メランコリー)とでも呼べるようなものである。「世界が縁遠く、よ そよそしく、不吉に、気味悪く見える」。ものごとがあたかも雲を通して見られるかのように、非現実的で遠く隔絶されたもののように見える。これを別の角度から見れば、意味の喪失ともいえるだろう。トルストイの経験を記述しつつ、ジェイムズは次のように言う。「人生には何らかの意味があるという感じが、しばらくの間まったく失われたのであった」。
宗教的憂鬱とは、全てのことに意味を感じられなくなることをいう。他人から見れば充実した人生を送っているようであっても、本人にとっては全てが空しく思える状態である。
第二の形は、ジェイムズがこれもまた「憂鬱」と呼ぶものであるが、恐怖という感情によって特徴づけられる。病んだ心がここで直面する対象は無意味さとしての世界ではなく、むしろ悪としての世界である。この第二の形がひどくなると、脅威となるものは「絶対的かつ完全な絶望であって、全宇宙は病んだ心のまわりで凝固して圧倒的な恐怖の塊と化し、初めも終りもなく彼を取り巻いてしまうのである。悪についての概念や知的な知覚などではなく、血を凍らせ心臓を麻痺させるかのような、身の毛のよだつ悪の感覚が近づいてくる。……ここには助け給え、助け給え、という宗教的問題の本当の核心がある」。〈29〉
恐怖とは、病める魂の人にとって、自己を取り巻いている宇宙が得体の知れない恐ろしいものとして写ることである。概念的に、つまり知識をもってそのように感じるのではなく、体感的に避けがたい感覚が迫ってくる。ジェイムズ自身もそのような体験を持っている。
深淵の第三の形は、個人的な罪深さにたいする鋭い感覚である。ここで彼が考えているのは、例えば通常のプロテスタントにおける「再生」の必要を説く説教に反応して、自分自身の罪深さに恐怖を覚え、その感覚ゆえにほとんど麻痺状態に陥っている人たちのことである―この感覚は恐らくその後に、救われるという感覚へと流れ込んでいくことであろう。〈30〉
病める魂の人はどうしようもなく罪悪感に襲われ、それが、月並みな慰めでは解決できないのである。鋭い感覚を持ち、自分がやってきたことの罪を自分自身では解決できないように思う。病める魂は、以上のような三つの種類に分けられるとテイラーはいう。
ジェイムズは代表的な著名人の例としてゲーテとルターを挙げている。彼らは反省的な人間であるゆえに、自らの成功によっては幸福な気持ちになることが出来ない。誰もが人生において自らが目指すところの成功を求める。成功によって人は満ち足りることができるのであろうか。ジェイムズは成功についてこのように解説する〈31〉。
まず、この世における成功の経験というような不確かなものごとが、どうして堅固な投錨地となることができるであろうか。一本の鎖は、その鎖のいちばん弱い環ほどにも強くはない。そして、人生とは要するに一本の鎖なのである。もっとも健全な、そしてもっとも富裕な生活にあってさえも、つねに、病気、危険、災厄などの環がいかに多くさしはさまれていることであろう。昔の詩人が歌っているように、歓楽の泉という泉の底から、思いもかけず、苦いものが、立ちのぼってくる、かすかな嘔吐感、喜びのにわかの消滅、一抹の憂鬱、葬いの鐘を鳴りひびかせるものが。
というのは、それらのものは、つかの間のものであっても、深い領域から立ちあらわれてくる感じをともない、しばしば、人をぞっとさせるような説得力をもっているからである。止音器が弦をおさえつけるとピアノが鳴り止むように、人生の響きもそれらの感情に触れると鳴り止んでしまう。
もちろん、音楽ならふたたび鳴り始めることができる。―繰り返し繰り返し―間を置いて。しかし、人生の場合には、健全な心の意識は癒やしがたい不安定の感じを残したまま置き去りにされてしまう。それはひびのはいった鐘である。それは、お情けで、いわば偶然に、呼吸をしているだけなのである。
ジェイムズのこの記述を見ると、極めて仏教的に人生を見ていることが分かる。人生というものを切れやすい鎖にたとえ、人は常に病気、危険、火災などの恐怖にさらされているという。そのような中で、成功というものは一溜まりもなく崩れていくことをジェイムズは知っていたのである。諸行は無常であることをジェイムズは感じていた、と筆者は考える。
ゲーテのような無敵の楽天家が次のように自分を表現するとき、彼ほどの成功に恵まれぬ者はどう自己を表現すべきであろうか?
「私は自分のたどってきた人生行路に、」と一八二四年、ゲーテは書いている。「いささかも不服をとなえようとは思わない。しかし、結局、私の生活は苦痛と重荷にすぎなかったし、七十五年の全生涯において、真に幸福であったのは四週間とはなかった、とさえ断言できる。私の生涯は、たえず転がり落ちるので永遠にもち上げてやらねばならぬ岩のようなものでしかなかった。〈32〉
ゲーテは存命中から、文学者としての才能を認められ、富も名声も備えた人間であった。しかし、圧倒的な苦痛と重荷に満ちていたのである。
一般的に見て、ルターほど独力で成功をおさめた者はかつてなかったであろうが、しかも、その彼が、老境に達してから、生涯をかえりみて、それがまったくの失敗であったかのごとく見なしているのである。
「私はすっかり人生に疲れはてた。主がただちに来たり給うて、私をこの世から連れ去ってくださるよう、私は祈っている。わけても、主が来たり給うて、最後の審判をくだし給わんことを。そうすれば、私は頸をさし出そう。雷鳴が俄かに起こるであろう、そして私は休息できるだろう。」―そのときルターは白瑪瑙の首飾りを手にもっていたので、こう言葉をついだ。「おお、神よ、願わくは、審判がすみやかに来ますように。明日、最後の審判を行ない給うなら、私は今日よろこんでこの首飾りを飲み込みましょう。」―ドワゲル選挙侯夫人は、ある日、ルターと食事をしていたとき、彼にこういった。「先生、もう四十年は生きて下さいませ。」彼は答えた。「奥様、これからなお四十年も生きるくらいなら、いっそ私は、天国へ行く幸運をあきらめますよ。」〈33〉
ルターもまた、自分の人生を悲観し、早く死んでしまいたいと思っているようにみえる。彼にとって生きていることは、それまでの人生が全くの失敗だったと感じさせられるものだ、とジェイムズはいう。ジェイムズは他にも、人生の成功者とみえるトルストイについても、人生を苦痛と感じた人物として、彼の心境を引用している。
この二つの見方に対してジェイムズは、明らかには是非を言わない。病める魂からすれば、健やかな心は盲目的で浅はかに映るであろう。反対に健全な心の持ち主からすれば、病める魂は女々しく病的であるように映るであろう。そしてジェイムズ自身は、自分は病める魂側の人間であると捉えていた。
しかしながらジェイムズは、病める魂の方がより広い領域を見ているという。なぜなら人は常に、病気になり、死にゆく可能性を秘めている。漠然とした広い宇宙の中で、不安に脅かされているのである。この、仏教の四苦でも説かれる病苦、死苦を感じとっていたジェイムズは、非常に仏教的であることが窺える。人生の不安要素を苦にして鬱的になるならば、健やかな気持ちは忽ちに消し飛んでしまう、とジェイムズは言うのである。
さらにジェイムズは、病める魂を次のように前向きに捉えている〈34〉。
なぜなら、健全な心が認めることを断固として拒否している悪の事実こそ、人生の意義を解く最善の鍵であり、おそらく、もっとも深い真理に向かって私たちの眼を開いてくれる唯一の開眼者であるかもしれないのである。
病める魂を持つ人こそ、宗教的な廻心体験を必要とする人なのだという。ジェイムズがどちらの人間であったかというと、時に辛い鬱病を患う、病める魂を持つ側の人間であった。テイラーは、ジェイムズが人間の根本的に持っている病める心の解決を描いたからこそ、この『宗教的経験の諸相』は不滅であり、のちの世になっても読み続けられる書であるという〈35〉。
またジェイムズは時に、単純に人を二種類の人間に分けることができないことも認めている。人間の心は複雑であり、この二種の性質は混ざりあっていることも往々にしてあろう。ジェイムズが成功について述べているように人生の成功というものは大変儚いものである。また病や死など人生には暗転が待ちうけている。一度生まれでの性質を持っていたのに、健やかな心が病んでいくこともあるであろう。しかし上述したように、病んだ魂が最も深い深理に眼を開く可能性があるとすれば、人生の苦悩にあるとき、は真実の扉を開く大きな機会にもありえるということができる。
筆者はこれまでのジェイムズの見解から、浄土真宗は病める魂に適応する教えであると考察する。自己の力では仏になれぬことの苦悩から抜け出した親鸞は、まぎれもなく病める魂を持つ人であると理解する故である。親鸞は、法然に出会い阿弥陀仏に救われることで、二度生まれの体験を持ったのである。