第二章 第一節 獲信とは何か
浄土真宗の教えは、絶対他力の真実信心を得ることによって、それが因となって成仏する教えである。本願成就文〈1〉に示されるごとく、第十七願において十方諸仏が称讃したまう名号を聞いて信心歓喜する一念に、阿弥陀如来から回向され他力信心が生じる。『唯信鈔文意』に、
信はうたがひなきこゝろなり(『聖典全書』二、六八三頁)
とあることから、阿弥陀仏の行信を得て疑いの無くなることを獲信というと筆者は考察する。獲信とは、「信心を得る」「信心獲得」「信心開発」などと、同じ意ととることが出来よう。
ところで序論で述べたように、伊藤康善は獲信に至るまでの「求道」が浄土真宗の教えにある、と主張する。しかしその主張に対して、「自力くさい」「他力の教えに自分からの働きかけはいらない」などの批判が起っていた。では浄土真宗においては、求道や自分からの働きかけは必要無いのであろうか。
前述したウィリアム・ジェイムズの「二度生まれ」の観点から考えると、健やかな心を持つ一度生まれの人格者は、求道する必要がなく、阿弥陀仏の救済を聞いてすぐに廻心が起こることもあるかもしれない。しかし親鸞自身は、比叡山での修行に失望して生死出ずべき道を求めた、つまり求道したのである。
また上田義文は『親鸞の思想構造』で、信心が阿弥陀仏より廻向されるということと、衆生が信心獲得することとの関係について言及した後、次のように述べる〈2〉。
さてこのような真実心の如来と不真実心の衆生という相反対立する二者の雙方からの働きかけ―衆生の信心獲得と如来の願力(他力)廻向との相互的関係―が合して一つになる所が、信心獲得の成立する所であり、同時にまたそれが願力廻向の成就する所である。そこにおいては、信心獲得が願力廻向において成立する。(中略)両方からの働きかけが必要であるが、人間からの働きかけは、他力の方向に向って進むことはできても、その努力の必然的な結果として他力にまで至り届くのではない。換言すれば、人間の働きから他力へは繋がらない。人間の力が限界にきて、どうにもならなくなってしまった所に、他力の働きが及んでくるのである。
つまり、人間の力が限界にきてどうにもできなくなった所に他力の信がひらかれていく、というのである。
また上田義文は、衆生が阿弥陀仏の行信を得ようと働きかけることを信心獲得とし、如来の願力回向―真実の願心(行信)を与えようと阿弥陀仏が衆生に向かって働きかけることを願力回向とする。この二つの事柄はそれぞれ反対の方向性を持つが、一つに結びついて離れない関係であるという〈3〉。
そして『唯信鈔文意』には、信心を得た人には疑いの無いことが明記されている。
憶念は、信心をえたるひとはうたがひなきゆへに本願をつねにおもひいづるこゝろのたえぬをいふなり。(『聖典全書』二、六九四頁)
よって、衆生が如来の行信を得ようと働きかけ、阿弥陀仏の本願に対する疑いの無くなることを獲信というと筆者は考察する。
では、どのような働きかけによって疑心は消滅するのであろうか。次節にて、親鸞の三願転入の記述より考察する。
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