第三章 第一節 伊藤康善の生涯
伊藤康善 関連年表
1897年 0歳 奈良県當専寺の長男として出生。祖父は達善、父は了善、母は菊野。
1916年 19歳 仏教大学(現龍谷大学)入学
1918年 21歳 春、大和野口村(野口道場)堀尾よしの下で入信。『仏敵』の執筆を始める。
1921年 24歳 仏教大学(現龍谷大学)卒業、「真宗宣伝協会」に入社。
1923年 26歳 関東大震災発生
1925-26年 28-29歳 『善き知識を求めて』『同行巡礼記』『華光道場物語』など執筆
1929年 32歳 「真宗公論社」主筆。『文化時報』に、『安心調べ』の連載を始める。
1935年 38歳 『安心調べ』『仏敵』『善き知識を求めて』を発行。
1938年 41歳 4月、国嶋病院(京都市上京区大宮薬師山)に宗教部が設置される。国嶋貴八郎は自然良能社を設立し、雑誌『良能』を刊行。伊藤は「治病は一大事業なり。六尺病床これ道場」をスローガンにした同病院において、布教を開始した。
1941年 44歳 同病院は軍部に収監され、宗教部も解散となる。11月に信仰雑誌『華光』を創刊、病院関係者(患者、付添いなど)を中心にした文書伝道を開始。12月に太平洋戦争が勃発。『悟痰録』などを編集、発行。
1942年 45歳 4月、「華光社」が創立される。
1952年 55歳 『死を凝視して』編著。
1957年 60歳 華光会館が完成。六月、伊藤は中外日報嘱託として渡米。『中外日報』に『北米赤毛布旅行』連載。
1958年 61歳 2月、伊藤が北米より帰国。7月、『華光出仏』発行。10月に浄土真宗「華光会」を宗教法人に登録。
1959年 62歳 9月、『一願建立と五願開示』発行(『我が信仰勝進陣』に収録)。
1960年 63歳 1月、『仏教詩歌集』発行。6月、伊藤は興正寺派司教として、興正寺の安居で「一願建立と五願開示」について講義。8月、『われらの求道時代』発行。
1961年 64歳 4月『アメリカ同行順礼紀』発行。
1962年 65歳 4月『真宗安心一夕談』(『真宗安心一隻眼』改訂、『善き知識』収録)発行。6月、伊藤は興正寺の安居にて「(願生帰命弁)横越真道金剛碑」を講義。
1969年 72歳 1月9日、往生「瑞光院釈康善」。興正寺より僧班、「権少僧正」授与。
1990年 11月、信仰雑誌『華光』創刊50周年。
2003年 4月、求道物語『仏敵』(現代仮名遣いで再版)(春秋社)
伊藤康善は1897年9月9日、奈良県北葛城郡新庄町當専寺の長男として生まれ、後に當専寺の17代住職となる。
當専寺は元々、真言宗高野山妙蓮寺の末寺で、宝王院善景寺と号した。天正年間(1573-1591年)本願寺の11代宗主・顕如上人の教化を受け、住職であった照信師が寛永九年(1632年)浄土真宗に転宗。本願寺13代・良如上人から山号として一養山、當専寺という寺号が下賜された。
當専寺は伊藤の長男・伊藤信隆が18代住職となり、その後、伊藤信隆の従兄である津田正文の子息・津田晃正が19代住職を継承して現在に至っている。祖父は達善、父は了善、母は菊野であった。
1921年3月に仏教大学(現龍谷大学)卒業する。伊藤は仏教ジャーナリストを目指し上京、「真宗宣伝協会」(野依秀市会長)入社する。その後「協会」は『実業之世界』編集局と同じ建物に移った。その事によって伊藤は、『実業之世界』編集局に出入りする著名人と面識を持ち、夏目漱石の高弟である松岡譲など文壇人との交流を持つ。その後伊藤は編集者となり、『真宗の世界』に『仏敵』の連載を始める。1923年9月に関東大震災が発生し、「真宗宣伝協会」の建物は崩壊したが、伊藤は奈良の自坊に滞在しており災難を逃れた。
果たして伊藤はどのような人格であったか。その人となりを知る人は一様に、伊藤は禅僧のような飄々とした雰囲気を持ち飾り気のない人であったと言う。
華光会設立当初からの同行であり、伊藤を師と仰いだ浄土真宗本願寺派の和歌山県の僧侶・吾勝常晃(一九二八~二〇〇五)は、著書『伊藤先生の言葉』の中で次のように語っている〈2〉。
その意味でも、伊藤先生は、充分によき人の資質と、配慮に満ちた人であった。自らを善知識ぶったり、人をして善知識だのみに陥らしめる人の多いなかで、先生は、常にそれを警戒された。「親鸞は、弟子一人も持たず」を、地で行った方であった。それで、「仏来らば、仏を斬り、師来らば、師を斬る」という、越仏殺祖の気概を示された。一国一城の主としての念仏者の育成が、先生の終生の目標であったかと思う。
私どもの学生時代に、先生は、よくこんなことを言われた。「君らは、ボクの尻を踏みこえて進みたまえ。ボクらは、小ぜりあいに浮き身をやつしている真宗教界なんかを問題にはしていない。われわれは、久遠の弥陀の願心を求め、それを伝えるために、信疑廃立の法幢をかざして、龍華三会のみ代までも、この信仰運動は続けるのだ。源流遠く末永し。弥陀の選択本願に端を発し、釈尊の本願成就文に開示解釈され、しかして七祖これを承けて、親鸞聖人へと受けつがれてきたのが、この廃立の法門だ。
ボクらの信仰運動には、会長もなければ会則もない。去る者は追わず、来るものは拒まず。強いて会長をもとむれば、会長は釈尊であり、十方諸仏が顧問、浄土三部経が会則だ。従って、華光の信仰運動も、縁あって興ったんだから、因縁尽きなば、明日の日に解散してもよいではないか。
吾勝の言葉より、伊藤が多くの人を育て、敬愛を集めながらも、決して善知識ぶるところのない人物であったことが読み取れる。そして華光会という組織を創立したが、その拡大を目指すような意向は無かったことが窺える。信疑廃立を問題にし、純粋な信仰活動をどこまでも続けようという固い意志があったようである。
また、華光会代表を務めた増井悟朗(一九二五~二〇一五)はこのように語る〈3〉。
今少しく、先生の人となりにふれれば、先生は、真宗興正派の学頭であり、本派でいう勧学にあたる方である。しかし、決して学者ぶったところのない方であった。それは、宗学者にありがちな、聖教の生き字引き的存在とはほど遠い、真宗の生きた学問をなさった方だからと思う。そのうえ、禅僧のような超俗的風格というか、むしろ奇行に近い方といったほうがよいほど、逸話が多く残されている。
興正派では、「俗で庄松、僧で康善」といって、二人を自慢しているようだが、庄松同行は、他の妙好人たちとは一頭地を抜いて、信の切れ味の違いを感じさせる。先生もまた、単なる宗学者とは違って、その主著『仏敵』で知られるように、烈々たる求道体験の持ち主である。しかも筆がたつ。漱石門下の松岡譲をして、「既成文学の塁を摩するもの」とまで絶讃せしめた『仏敵』は、文学作品としても香り高きものである。
しかし、先生は、その発音があいまいなうえに、関西弁特有の語尾のあいまいさというか、先生の場合は、大和弁が終生抜けなかったので、その法話は、お世辞にも上手とはいえなかった。とくに、感情をくすぐる話術に長じた職業僧の、有難説教で耳をならした同行衆にはおよそ了解し難い説法をされた。
ところがその法話の筆記録というものは、そのまま原稿になるほど無駄がなく、豊かな内容と深い思想性に富んでいることに驚く。畏友である龍大助教授の西光義敞兄に言わせると、明治以後の真宗に大影響を与えた、大派の清沢満之師に、まさるとも劣らぬほどの偉大なる宗教家であるという。
伊藤は興正派において学頭、後に司教にまで上り詰めたが、聖教の生き字引きのような人物ではなく、自らの獲信体験を元に、未信の人に求道をすすめる布教活動に身を尽くした。そして筆が立ち文筆家としても活躍し、主著『仏敵』の執筆のみならず、国嶋療法の自然良能社での雑誌『良能』の主筆、そして興正寺においては真宗公論社の主筆を務めた。しかし話し方は大和弁がきつく、聞き取りづらい説教であったという。『安心調べ』の内容を見ると、時に毒舌振りが目に余る箇所もあり、相当に辛口で辛らつな人物であったとも言える。
これらの意見をまとめると、伊藤は時に毒舌が目に余る面があるとしても、 多くの僧侶、在家信者が伊藤を敬愛していた様子が見える。伊藤は『安心調べ』に見られるように、信心の上で問題を見出した時には、社会的に地位がある人物でも容赦なく批判をする豪傑であった。
しかし一方、『悟痰録』や『死を凝視して』などに見られるように、結核病患者に細やかに指導し、暖かく見守るような一面もあった。華光会が会館を持つ時にも、建物という財産を持てば後に会員同士の争いを招くといって、伊藤は会館建設に反対したiii。それほどに彼は、一般的な金銭欲のない人物であった。たとえ多くの人に尊敬されても、自らは集団の長として威張ることはせず、善知識ぶることを避けた僧侶であり、注目に値すべき人物であることが窺える。