第三章 第二節 第二項 伊藤の求道と獲信(前半)
伊藤の求道記『仏敵』は、信心を獲得することを克明に記した貴重な書である。伊藤は幼少の頃より仏法との縁はあったが、他力信心を持つ同行達と直接対峙して求道したのは、僅かに四日間である。この短い期間に、伊藤は信の一念に出遇った。求道記は近角常観の『懺悔録』など他にも例をみるが、『仏敵』ほど求道者の心理を丁寧に追っている書は稀である。獲信の過程を知る上で重要な箇所である。同行との会話の中で、伊藤の心境に刻々と変化があらわれ、獲信へと辿り着く。どのように心理的に変化があらわれていくのか詳細に記録してある故、長い引用となるが本章ではこれを採り上げる。
『仏敵』の内容は大きく次の三段階に分類できる。
(一)伊藤の幼少時代からの法に対する目覚め
(二)友人の死と、同期学生の苦悩と退学
(三)野口道場での堀尾よしの臨終。葬式での聞法、獲信
以下に説明する。
(一)伊藤の幼少時代からの法に対する目覚め
伊藤康善は一八九七年九月九日 奈良県北葛城郡新庄町の當専寺の長男として生まれた。『仏敵』『善き智識を求めて』から、伊藤の生い立ちと求道の様子を知ることが出来る。以下、両書より参照する〈15〉。
伊藤は運動好きで腕白な子供であったが、四歳の時に急性腎臓炎を患い、生死の境を彷徨う。母親とともに苦しい息の中で念仏していると、薄暗い所へ沈んでいく感覚に襲われる。回復した後も当分は、あの時死んでいたら何処へ行ったのであろうか、という恐怖心を抱いていた。
しかしその後、伊藤の心は次第に仏教から遠ざかっていく。伊藤の祖父は読経が好きで、幼少のときから伊藤に浄土三部経を暗記させようとした。暗記しようとした所を間違えようならば、平手打ちにされた。伊藤は次第に寺院や僧侶生活に非常に険悪を覚えるようになる。その理由を伊藤は幾つか挙げている。
無信仰な小学校教員が、地獄や極楽の話なんか爺婆になってからの話だ、と放言していたこと。明治に入ってから小学校の教育が大きく変わり、小学校教員達は科学を知り、西方に浄土があるなどということは迷信だと子供たちに教えようとする者が多かった。村の子供達と喧嘩して勝っても「坊主、小坊主」と馬鹿にされたこと。そして自坊で集会を開いた時に、地方の僧侶たちが外面は殊勝にしていても、無礼講の酒席になると諸肌を脱いで大喧嘩することを見ていて良く思うことが出来なくなったとある。
それ故に、体が弱かった父親に代わって檀家の法事に行くことが、非常に苦痛であったようだ。そして中学となり軍隊規律で生徒を縛る田舎中学では、情操の温かみが何一つ無く、その時に幼少の折に感じた宗教情念が潜在意識の中に沈んでいった、とある。中学四年になっても真宗の開祖が親鸞であることも知らなかった。
伊藤に転機が訪れたのは大学時代である。それは第一次世界大戦の影響による好景気で日本でも成金が続出していた時期で、伊藤の友人達は商業や工業の専門学校を選んでいた。しかし伊藤自身も両親も世の中の情勢に疎かったために仏教の大学を選んだ、とある。当時、新入生はみな寄宿舎に入らなくてはならなかった。朝は本願寺の梵鐘で目覚め、法衣に黄袈裟を着て講堂、両堂へと参拝してから朝食。昼食前にも必ず三部経の一節を拝読してからでないと食堂へ行けなかった。
習う科目も全て仏教に関係するものであった。英語以外に洋綴じの本もなく、生徒も教師も洋服を着ている者はほとんどいなかった。仏教学の教師はみな袈裟を掛け念珠を持って教壇に立った。伊藤は時代錯誤の感じを受けていたが、信仰中心で引き締めていこうという校風は厳粛を極めていたようである。学生もほとんど温順であった。当時の大学林は雄弁術が盛んであり、レフ・トルストイ(一八二八~一九一〇)やアンリ・ベルグソン(一八五九~一九四一)について語り合った。
仏教の授業は単に参考資料ではなく「人生の思索」を主として教えられていたので、みな何らかの独創的な思想を生もうと努力していた。したがってそういった思索に長けた者や、雄弁に長じた者は皆から尊敬された。伊藤はそのころ毎晩、就寝時間の十時半を越えてから真っ暗な二階へ上がり、深夜の静寂の中で闇の恐怖を味わいながら座していた。そのため昼間は意識が朦朧とし、生徒たちの間では仙人のようだと馬鹿にされたこともあったようだ。しかし世の中は好景気時代で、裕福な寺院の子弟には寄宿舎を抜け出して毎晩飲みに行く者もいるような時勢であった。
(二)親友の死と、同期学生の苦悩と退学
大学の初めての夏休みに、伊藤を仏法の求道へと向かわせる出来事が起きる。それは中学時代の親友の死であった。気楽な見舞いのつもりで病床の友に会いに行くと、友人は極度に重い胃腸病にかかっていた。紅顔の友が白骨のような姿となって横たわっていたのだ。友が伊藤の角帽の三宝記章に手を合わせて合掌し、友人の母は、息子に仏様の有難い話を聞かせてやって欲しい、と懇願する。伊藤は、何も言えない自分に対し、激しい自責の念にかられたのである。その時の思いを伊藤はこのように述べている〈16〉。
月は薄雲に隠れて、またたく青白い星の光が三ツ四ツ、落莫とした凄惨な夜の空を仰いだ時、ああ、私は何と云う寂しい自分の心を眺めたことであろう。二十年来、目隠しされていた霊の眼は、今ちらっと細めをあけて、真っ暗な死の姿を眺めたのだ。見るべからざる無劫の闇の世界を見たのだ。如来は何処だ、光は何処だ―自分の心のどん底には、安心もなければ信心もない。久遠の業の尾を引いたどす黒い魂が、本能的な死の恐怖に戦いているだけだ。早く―寸刻も急いで釈尊や親鸞のように霊の光を見つけたい。ああ、併し、その光も―。
この時をきっかけに伊藤に求道の思いが強く芽生えた。その夜は強い興奮で眠れなかった。死んでいく友の姿よりも、予期しなかった自分の不安な心に驚いた。急いで逃げ帰った自らの卑怯な魂に恥じ入った、と記してある。法を説いてほしいと請われたことで、まざまざと自分の中に語るべきものが何も無いことに気が付いたのである。
この友人はその後、間もなく亡くなった。伊藤は彼が亡くなる前に長い手紙を書いた。その中で阿弥陀仏の慈悲を説き念仏を勧めたが、そのようなことで友人が安心したかどうか不安な気持ちであった。そして自信も無く書いた手紙が友人を迷わし、阿弥陀仏を欺いたことが非常に苦痛であった。
またその頃、伊藤は重い脚気に悩んでいた。一夏中、陰鬱に信仰に悩み、昼は蔵書を読み気を紛らわしたが、夜になると闇の恐怖に襲われた。死んだ友人の霊がいるような気持ちになったのだ。この友人の死は、伊藤に大きな転機を与えることとなった。
伊藤はその後、書物の中に信仰を探すようになる。秋になって学校に戻っても快活な気持になれなかった彼は、図書館で信仰書を読み続けた。しかし、伊藤の求めるものと書物の教える内容とは大きな距離があった。当時の伊藤の知識では理解できないような哲学や論理であったり、逆に安っぽいセンチメンタルな話であったりした。何より、どれも信心の焦点をぼかしてあった。そのため、日本人の著作を読まなくなった。
次に、これらの洋学書を濫読した。
アルトゥル・ショーペンハウエル(一七八八~一八六〇)の哲学書
トーマス・カーライル(一七九五~一八八一) 『衣装の哲学』
チャールズ・ダーウィン(一八〇九~一八八二) 『種の起原』
ジャン・アンリ・ファーブル(一八二三~一九一五)『ファーブル昆虫記』
ヒョードル・ドフトエフスキー(一八二一~一八八一)『罪と罰』など。
洋学書を読み耽けることは伊藤に喜びを与えたが、ふと我に帰ると、現実には如来の信仰を求めることから益々遠ざかっていることに気付いた。無限に拡げられていく知識の中でいつまでも遊んでいると、自分の本来の使命も忘れて魂の底から外道になるのではないか、と恐れるのであった〈17〉。
書物の中に信仰を探すことに疲れた伊藤は、次に、講演や説教の中に信仰を求めるようになる。また一方で、全神経を尖らせ如来の秘密の声を聞こうとしたり、歩いていて石につまずいても如来の黙示ではないかと考えたりもした。信仰の話を聞いて素直に頭が下がった時に、これが信心なのではないか、と考えた。念仏を称えて如来の慈悲を感じた時に、これが光明ではないかと思うこともあったが、伊藤はこれらは他愛もない観念の遊戯であり、青春が寂しく過ぎていくのを感じていた〈18〉。
大学二年生の夏、頭で物を考えるのに疲れた伊藤は、苦行を求めて旅に出た。野宿旅行をしたが得るものがなく、次に高野山への旅行を思いつく。道すがらで偶然出会った乞食と、道中を共にした。乞食はもともと真言宗の僧侶であったが色欲に迷い身を滅ぼしたという。伊藤は当てどもなく彷徨ったが、分かったことはいたずらに苦行を求めても求道に縁深いものではないということであった。十六年も乞食をした元真言僧からも、何ら精神的に光ったものは感じられなかった。
仏の智慧が必要だと感じた伊藤は、こう述べている〈19〉。
智慧だ、信心の智慧が必要だ。神聖なる沈黙の淵から冷朗と輝く無上宝珠の智慧を得なくてはならぬ。
伊藤はいたずらに苦行の真似ごとをしても救われるものではなく、信心の智慧の光が無ければ、無駄に時が過ぎていくだけだと感じた。求道していくのにはそれを導く、信心のある善知識が必要であることをこの旅で伊藤は悟るのである。
この後、伊藤はある友人の退学事件によって大きな感化を受ける。この友人の名前は『善き知識を求めて』では「宮村」とあり、『仏敵』においては北村とある。発言等より同じ人物と考えられる。ここでは、この時期のことをより詳しく述べてある『仏敵』より引用するので「北村」に統一する。
伊藤は当時、大学の寄宿舎の室長をしていた。同室であった北村は札幌市でも有名な富豪の四男坊であった。家は無宗教の在家であったが、深く自ら発心する所があって入学してきた。普通の学生よりも二、三倍の学資金をもっていたがすぐにそれは飲み代など遊びに使ってしまうのだ。伊藤はその自堕落な態度に憤慨していたが、つきあっていくうちに文学的に変わった面白い性格をしていることがわかり、興味をもつようになった。次第に感化されて伊藤自身もよく酒をよく飲むようになり、ただ生真面目に勉強するよりも自由に寛いで乾杯することを好むようになった。
二年のある日のことである。その時分北村はいつもに増してよく泥酔し、介抱する伊藤はそのことに閉口していた。今日こそは逆に伊藤自身が泥酔して北村に世話をさせ、どんなに面倒かを知らせよう、と思っていた。それほど酔っていなにのに故意に騒いだことで、上級生に咎められ、宿直の先生に説教をされることになる。伊藤は次第に信仰の悩みの苦しみを打ち明け泣き崩れる。なだめる先生に伊藤はこう語る。
先生、私は口で言ふほどの実感は浮かびません。私はこんな刹那でさへも、佛言を借って自分の浅い感情を表さうとする自分の心を憎むのです。‥‥私は佛学のために身を捧げたいと思います。併し或る時期には自ら潔く自決しようかと思ひます。私は今日までおめおめと不甲斐のない生命を続けてゐた事さへ腹立たしくてなりません。‥‥〈20〉
その後伊藤は、北村に手を取られて部屋へ戻り、すすり泣きながら眠った。翌日から今度は北村が悩む様子を見せ、激しく泣き、暗い半生を語るのであった。北村は中学三年のときに慈愛の母と別れてから、文学や宗教と親しみ、ある時は吹雪の荒野に神の声を聞こうとし、ある時は北海の怒涛に死を求めて漂泊した。北村はこの時、以下のように発言している。
「さうだ‥‥君とも別れよう。君のような奴と別れるのが何だ、僕は一切のものから‥‥永遠に別れるんだぞ。‥‥君に‥‥君に‥‥此の血の吐くような胸の悩みを打ち開けたいと思ふが、そうするためには君はあまり無価値なんだ‥‥」
彼は泣きながらあらゆる罵言を私に浴せかけた。私は黙ってその言葉を聞いた。禅僧の痛打三十棒を受けるような思ひで聞いてゐた。その慟哭する言葉の中に、 「僕はかうしてゐても、丸三年といふものは、聞其名号の聞の一字を求めて、人知れず泣いて来たぞ‥‥」 といふ一語を聞いた時に、私は飛び上がる程おどろいた。
ああ!私は声も立てず机の上に頭を伏したまま余りの恐怖に近い懺悔心で、ぶるぶると身体中を震わせてゐた。〈21〉
金を散財し享楽的に生きている北村が、まさか獲信への道を求めて苦悩しているとは、伊藤は夢にも思わなかったのである。激しく動揺する伊藤に対して、北村は泣きながら今日のうちに退学すると言い張り、宿直の教師の部屋へ伊藤と出向く。北村は自分の苦しみを訴えた。
「‥先生!僕は生きた餓鬼です。何者も受容ることのできない呪われた餓鬼です。どんなに美しい水も‥‥僕の前には炎となります‥‥」〈22〉
「先生!乾びた概念は僕の問題じゃないのです。僕も涙より涙に徹すべき念佛は知つています。‥‥が僕は阿彌陀様の御姿を拝した時に、ハッと感じて胸の中へ抱かれ度い様な氣がするのです。けれども後念には最早雑念が浮かんで来て、理が解らなくなります。‥‥先生!僕は母に別れてから‥‥兩三年の間、総てのものを犠牲にして、真実の光を求めて居りますが、まだ解りません。‥‥偉大なる慈悲は僕の胸に撤しないのです。‥‥僕は本願成就門にある聞其名号の聞の一字が解りません。‥‥あの聞の一字が解らないために‥‥」〈23〉
宿直の教師がなだめるのも聞かず、北村は退学すると言い張り黙り込んでしまった。この北村の言動の影響で、直後に伊藤の部屋に数人の友人が集まって、信仰の話をするのである。日頃の無邪気さは消え、不安で深刻な雰囲気の中、四人の友人が各人各様、信仰についての悩みを語る〈24〉。この場面は、当時の若き僧侶たちが何を思い求めていたかをよく表している。
友人A 在家出身、母親が有難屋の念仏者
Aは仏の慈悲が少しも有難くないという。大学に入れてくれた母親のために仕方なく仏前勤行などもおこなうが、決して仏の慈悲を信じているわけでない。法話会などで説教をする坊主は、嘘八百を並べている偽善者のように思える。
友人B 寺院の長男、雄弁家
幼少のころより説教が好きであり暗誦していたが、最近知った現代科学や西洋文明によって素朴な信仰が壊された。科学の常識を皆が知った今、地獄や極楽の地理的に語るのもおかしい。大乗諸経の非佛説であることが分かり、仏説や経説も御伽話のように聞こえる。自分は大勢の人を惑わすような説教をしてきたのではないか。これから新しい解釈によって仏教に意義を見出すべきか。既成の教義を否定して新しい自我の宗教をたてるべきか。
友人C 秀才、今後の寺院生活が危ぶまれることを悩む青年
無宗教が広まる中で、これからの僧侶階級の存在意義はあるのか。寺院が経済的に壊され僧侶の生活が奪われると、自分たちは自殺するしかなくなるのではないか。今のうちに還俗し金儲けに邁進することだ。信仰の悩みなどその後のことだ。
これら友人達の意見に対して、伊藤は次のように主張する。
仏教寺院が今まで保持されてきたのは、仏教の信仰や思想のためではなく、祖師の感化力でもない。日本人の中に強く根強く残っている先祖崇拝のためである。そのおかげで寺院は生きてこれたのである。近年、寺院生活が危ぶまれるといっても今はどこも苦しい状態にあり、そんな中で住居を保障され、最低限度の生活が保障されているのは、恵まれた境遇である。昔から仏教の自覚は極少数の人にしか分からなかったのである。その少数に入りたくて我々は悩むわけであるが・・・と伊藤は語る。
この発言より伊藤が極めて冷静に日本の仏教の現状を見つめていたことが窺える。
友人D
ややこしい自覚や求道、参学など無しに、阿弥陀仏が目の前に現れて、汝を必ず救うといって欲しいものだ。そういう阿弥陀仏が実在するかどうか、ということが疑問ではないか?
以上のような議論をしていた時に北村が、自分は阿弥陀仏を捨ててしまった、だからどこに放浪するかが問題だ、と最後に言うのである。翌日に北村は出て行き、伊藤は二度と彼と会うことはなかった。
北村は、強く阿弥陀仏と出遇うことを求めていたが、それが叶わずに退学を選んだのである。北村との別れは伊藤にとって、「目覚めよ!」という阿弥陀仏の今現在説法のように聞こえたと伊藤は回想する。
(三)野口道場での堀尾よしの臨終、葬式での聞法、獲信
次に伊藤は、奈良県の同行達と出会い、求道上の転機を迎える。この時期をさらに六つの段階に分けることができる。
(1)野口道場での堀尾よしとの出会い
(2)同行たちの激しい喜びぶりを見聞きして、非常な驚きを覚える。
(3)植島藤太郎からの示談
(4)二つの不可思議な体験をし、獲信したと思い込む
(5)信を得たと思っていた伊藤だが、不信が起こり、同行から示談を受ける
(6)獲信の体験
それぞれ以下に説明する
(1)野口道場での堀尾よしとの出会い
仏法が分からないと悩んでいる伊藤を見て、伊藤の母親が、野口道場の堀尾よしに会うように勧める〈25〉。堀尾は長い間當専寺の世話をしていた女性で、二十年前から野口村の庵寺に住まいを持っていた。寺とは名ばかりで何の収入も無かったので、経済的に非常な苦労をした。庵寺に住み始めた頃はまともに御文章も読めないほどであったが、深い信仰を持っており、その歓びを語っていくうちに四百名ほどの人が集まるようになった。余りの賑わいに警察から注意が来るほどの信仰運動を起こしていた。
伊藤は幼少のころに母親とともに何度も野口道場を訪れたことがあった。それまでも母親から堀尾のことは聞いていたが、大学二年の春休みに初めて一人で訪れることとなる。堀尾は重い乳癌にかかっており、一年の余命も危ぶまれる様子であった。
野口道場に着いてみると、化物屋敷のように荒れている。そこに青白い顔で座っているのが堀尾であった。伊藤は覚悟を決めて信仰の悩みを打ち明けた〈26〉。
ここより、堀尾と伊藤の他力信心に関する問答が続く。
「おばさん! 時に‥‥自力と他力の水涯は、實際心の中で判然と解りますか」 「解ります!」と強く、「自力で法を求めて居る間は、もやゝゝとして解りませんが、佛智の不思議にブチ當れば火の様にはつきりと解ります!」〈27〉
ここに伊藤の教学の特徴が表れている。求道者自身が、自分は自力信心であるのか、それとも他力の世界に入ることが出来たのか? ということが判然と分かる、という点である。後述するが、伊藤自身も布教する際にこの点を重視して、自力と他力の廃立が立つ、自力と他力の水際、などの表現を使って教えを説いた。堀尾は伊藤に対して、他力信心について語り続ける。
「正直で来いと言ふのが神様です。善人になって来いと言うのが諸仏です。悪人めがけて救ふぞよと呼びかけるのは只阿弥陀様丈です。こんな佛様が法界廣しといえども何処に居られますか」〈28〉
「‥おまえは学問の上では私よりずっと進んでいるだろうが、信の上になると蓮如上人も仰せられたように、努めて他力信心を獲た無我な同行に就いて聞かなくてはならぬ。一大事やぜ!一大事やぜ!」〈29〉
堀尾は簡潔な言葉で阿弥陀仏の救いを語り、学問を進めるよりも重要なことがある、と説明する。このことについて、蓮如の御文章にも示されている。
それ、八萬の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり。しかれば當流のこゝろは、あながちにもろもろの聖教をよみ、ものをしりたりといふとも、一念の信心のいはれをしらざる人はいたづら事なりとしるべし。〈30〉
いくら学問をしても、信仰と学問は別物である。そして堀尾は、信を得た同行について話を聞くべきだという。この後、堀尾が切り込んでいくような発言を続ける。伊藤と堀尾の具体的な会話によって、法が進んでいく過程が見える。自分の計らいを全て捨てさせられるようなプロセスが見て取れる。
「私は学問なんかは好い加減に見切りをつけて、禅宗の偉い人に就て坐禅でもやつてみようかと思ひます」
「阿彌陀様がお前のために五劫の間も座禅しておられます!」〈31〉
堀尾は学問を修めてきたわけではなく、仏教に関する知識の上では伊藤の方が多くを学んでいる。その意味において、堀尾は一文不知の尼入道といえよう。
しかし堀尾は後生の一大事を解決した智者であった。堀尾は伊藤に、学問が進んでいても他力信心が無ければ駄目だと批判する。これに対して伊藤は、学問を信頼しているわけではなく見切りをつけようと思っている、と発言する。そして自力修行として座禅するという。すると堀尾はすかさず、阿弥陀仏がすでに伊藤のために五劫もの間修行している、と切り捨てるのである。
「眞宗の者は罪深い凡夫であると云つて、卑下慢ばかり教へて何の修行もしないのが大嫌ひです。私はそんなに罪深いとは思ひませぬ」
「お前が阿彌陀様の御本願に相應しないのが大罪人や。その大罪のために久遠劫から迷うて來たのです。」
すかさず言つたこの言葉に、私はアッ! と飛び上がるほど驚いた。〈32〉
真宗で言われる「罪深い凡夫」という言葉に、伊藤はいつも反感を持っていた。果たして自分はそれほど罪深いのだろうか? それは卑下慢なのではないか、という思いが伊藤にはあった。そのことを堀尾は、自力と他力の廃立を通して完結に説明する。ここでの重要な点は、衆生が日頃作っている罪は阿弥陀仏の救済の対象だということである。それよりも問題となるのは、阿弥陀仏の本願に対する疑い心である。阿弥陀仏を疑うものが救われていかないことは、親鸞も次の和讃に示している。
仏智うたがふつみふかし
この心おもひしるならば
くゆるこゝろをむねとして
佛智の不思議をたのむべし (『聖典全書』二、五一〇頁)
堀尾は罪が深いのが問題なのではなく、伊藤が仏智を疑って他力信心を頂かないことが問題であり、それが伊藤を迷わせてきたのだと切り返す。返答に詰まった伊藤は、堀尾の入信について尋ねた。堀尾は次のように答える。
「私は三十四歳の時に獲信しました。十四の頃から三十四になるまで、喜ぶには喜んでゐたが、それは第二十願に迷うてゐたのです。第二十願と第十八願とは口先で言へば、全く同じことですもの―誰だつて自分の心に欺まされます。それで私は二十年間も嘘の皮の信心を握つて喜んでゐたが、三十四歳の時に多量の出血をして、それからどつと重い病に罹りました。私は其頃お前の寺に出入りしてゐたから、勝手元の座敷で寝てゐると、襖一つ越した次の座敷では、醫者がお前のお父さんやお母さんに向つて、あの子は間もなく死ぬだらうと言つてゐる聲が聞えたのです。〈33〉
堀尾は、十四歳のときから法を喜んでいたが、信心を頂いていたわけではなかった。しかし自分では信心が無いとは気が付いていなかった。自分の心に騙されていたのである。そして三十四才の時に病気になり、死を宣告された。それが、二十願から十八願へ入る大きなきっかけになったのである。
さあ、私は堪らなくなつて、愈々臨終を今に取り詰めて後生の一大事を思案してみると、行先が眞暗でさつぱり解らぬのです。平常の喜び心が何処へやら消え失せて終つたのです。佛様と私の間に薄紙一重の隙が出來て、九分九厘迄助かるやうでも残りの一厘が怪しくてもやゝゝするのです。(『仏敵』二六頁)
堀尾は、いざ死を目の前にすると後生が不安であることが分かってきた。日頃の喜びが消え失せてしまった。いわゆる平生業成が出来ていなかったのである。この仏と自分の間に薄紙一重の隙があるのだと気づくことは、非常に重要である。九分九厘まで助かるようでも、残りの一厘が怪しい、ということを問題にする人は少ないかもしれない。しかしそれは、第十八願と第二十願を分ける疑心だったのである。
その時、幸にもお前のお寺に法事があつて布教に來てゐた好い知識にめぐり會うて、眞實の第十八願にブチあたつたが、それは全く空恐ろしかつたぜ! 思慮も言葉も絶え果てたり! 只法の不思議力です。お前も早く信心を貰ひ! 早く信心を貰ひ! 僧侶の身でありながら生涯不淨説法をやつてゐるようでは浅間しいと思はないかい!」 (『仏敵』二六頁)
堀尾の入信体験を聞いた伊藤は、続いて念仏の効用について尋ねた。
「わたしは今激しく念仏を稱へて居りますが、これは入信の役に立ちませうか」
「不可ん、不可ん、そんなものは、あかん、あかん!」
と早口で吹き飛ばし… (『仏敵』二七頁)
堀尾は、ただ何度も念仏を称えるだけでは浄土へ往くことは出来ない、と断言する。
「當流の一義は廢立肝要なり。この廢立を知つて居らぬと、法を説くにも法を聞くにも大きな誤りを起こすから、よく心得て居らぬと不可いぜ。あのなあ、私が三十四歳の時に例の大病に罹つて、お前の座敷で養生してゐると御法事が営まれて、大阪の善光寺の御住職が説教に御出掛になつたのです。此の方は本山でも一番解り易く二種深信の謂れを説いて下さるので有名でした。それで同行達が詰めかけて御示談を願つてゐました。 (『仏敵』二七頁)
堀尾は、自力と他力の廃立を聞き分けることが真宗の教えで一番大事である、という。大病を患らった時に、伊藤の寺へ大阪の善光寺の住職が法事にきた。住職は一番分りやすく二種深信の謂れを説くことで有名であった。またこの会話より、当時、僧侶との示談が珍しくはなかったことも窺える。
私にも何か言へとの事でしたが、前にも話した通り大病に罹つて後生が苦になつてゐた時の事だから、心の内を有りのまゝに叙べて見ようと思つて『私は有難い事には有難いがいざ只今の往生となると、胸の中にもやゝゝした物があつて何だか判然と解らなくなります』と云ひました。
すると善光寺様は『お前は私の説教をよく聞いて置け』と申されたのみでした。説教が始つた時、何を言ふのだらうと思つて耳を澄ませて聞いてゐると、始の間は常並の説教のやうでしたが、高壇を下る前に只一言、當流には捨物と拾物とがある。これが解らねば百座千座の聴聞も何の役にも立たぬと云つてぽいと飛び下りました。
これは可笑しい、と思つて私は客間の方へ行つて、その理を聞いて見ると、善光寺様は驚いた様子で、お前は偉い所へ氣がついた。これは大事の問題だから一寸オイソレと云つた具合に軽く話すのは勿体ないと仰せられて、先ず口をすすぎ顔を洗ひ袈裟を掛けて謹厳な態度で物語られました。 (『仏敵』二七~二八頁)
堀尾は、講師が当流には「捨て物」と「拾い物」とがあるといい、これが分らねば百座千座の聴聞も何の役にも立たぬ、と言い残したことが気になり、問いただした。それが非常に重要なことだったため、講師は堀尾のために改めて説明をしてくれた。
當流には二つのものがある。捨物と拾物との二つのものがある。捨物とは凡夫の自力心である。拾物とは如來本願の名業である。今この自力心は、どんな具合に働くかと云ふに、先ず我が心の、欲しい、憎い、可愛い、といふ三毒の煩惱を斷じようとする心がある。煩惱心を斷じて行けば佛となれると思ふ。これは非常な誤りです。當流で三毒の煩惱を捨てよ等といふは大きな邪義です。この妄念煩惱の浅間しい心は信心を戴く前はもとより、信心を戴いた後も一生を貫いて、淨土の蓮臺に手をかけるまでは一向に治らない吾が心の自性であると思ひ詰めるのです。 (『仏敵』二八頁)
堀尾は、浄土真宗の教えには捨て物と拾い物の二つがある、という説明を受けた。捨て物とは自力の心のことである。浄土真宗には「自力」と「他力」という言葉があるが、求道者において自力心がどのように働くか、詳細に説明している部分である。
この自力の心は、二つの働き方をする。一つ目は煩悩を無くそうとする動きである。煩悩を断てば仏になれる、という方向へ働く。しかしながら、煩悩は死ぬまで治らないものであり、無くそうと力を入れる必要はないのである、という。
次に治らない煩惱心に対して治る心がある。それは前の自力心が煩惱心を相手にしないとすると、今度は姿を變えて、如來様の御本願をあゝではないか、かうではないかと疑ふ心です。
この自力の疑心は、大抵の仕事は自分一手に引き受けて、如來様のする仕事から善知識のする仕事まで、自由自在にやつてのける。救ひ手の親心を思案して、とや角と計らふのは勿論のこと、たのめと言はれると、たのみ心に力を入れたり、そのままで救ふぞと聞かされると、此身このまゝで好いのだと合點したり、落ちるまんまで救はれるのだと御教化を受けると、落ち身にもならずに、罪の私をお助けと思つたりする。此の胸三寸の中に説教場を設けて自分に都合の好いことばかり考へて、信心や安心をこね上げるのが自力心です。
この心は恐ろしい佛敵です。この心のために二十五有界迷はされたのです。この心は他力に依つて退治されるべきものです。この水涯を判然と立てゝ置かぬと色々な間違を生じます。 (『仏敵』二八~二九頁)
自力心は、もう一つの働きをする。自己の胸の中に説教場を作り、阿弥陀仏の救いをああではないか、こうではないか、と疑う。説教で弥陀を頼めと言われると、頼めばと救われるのだと決め付けて、頼み心に力を入れる。この身このままのお救いだと聞くと、このままの自分が救われると納得しようとする。
このように自力心は、自分自身の都合に合わせた本願を自分の中で作り上げる。問題にしなくてはならないのは自力の疑心であり、これは他力信心とは全くの別物である。また自力心は、他力信心を頂くことで退治される。このような自力と他力の境目を水際と呼び、明確に違いを認識しておく必要があるのだという。
この自力心は捨物であるが、次に拾物がある。それは佛敵、法敵の疑ひ心に行詰まりが起ると、今度は御廻向の南無の心が現はれる。それは生れつきの生地のまんまの、赤子のやうな原始の心になりかへつて、親様の血の滴るやうな喚び聲を聞かしていただく―と善光寺様は、かう教へて下さいました。私はその御教化の下に始めて夜があけたのです。ほんたうにさうです。あのなあ……」 (『仏敵』二九頁)
拾い物とは、阿弥陀仏から頂く他力信心のことである。これは、捨て物のうち、疑心が無くなることによって頂けるものである。ここに、後に伊藤が生涯を通して語り続けることになる、捨て物と拾い物の解説がある。この捨て物と拾い物は伊藤の布教における中心的事項であるので、第五章で詳細に解説する。
「私は此の廢立を知らせて、機の深信まで人々を押し詰めて置くと、不思議にも大勢の人々が信心を喜び出すやうになる。在家の若い人々に多勢居ります。今でもどんゝゝ入信するぜ‥‥」 (『仏敵』二九頁)
この言葉に堀尾の法の説き方が見える。まず求道者に自力と他力の廃立を聞かせ、その後で機の深信を説いていけば多くの人が獲信するという。
堀尾の入信物語を聞いた伊藤は、その真剣な求道の態度を勿体なく思った。赤子のような心に立ち帰れと言うのは、その時読んでいた哲学者ジャン・ジャック・ルソーの「自然に帰れ」という言葉と同じだと思い、興味深く感じた。しかし伊藤は、アダムとイヴが智慧の木の実を食べた如く批評眼ばかり鋭くなり、意識過剰である自分は自力の計らいから脱することができるだろうか、ましてや赤子の心になることなど不可能ではないか、と考える〈34〉。
「おばさん、御信心つて隨分難かしいですな。色々な思想や文學の影響を受けた私なんかは一生涯悶え苦しんでも獲信出来るでせうか」
「愚図々々と思案する心は迷ひです。其心がお前を二十五有界に迷はしたのです」
「この心とは?」
「今お前が胸へ手をあてゝゐる心が疑の全部です」
おやッ! と思つた。おばさんの深い智慧の鏡で、私の心の底まで照らして居られるのではないか! もやゝゝとして動いてゐた私の心は、其のときピンセットで食ひ止められた蟲のやうにピクリとも動かなくなつた。私は頭垂れて姑く沈思した。 (『仏敵』三〇頁)
ぐずぐずと考える伊藤に、思案する心は迷いであると堀尾は言う。伊藤の「この心とは?」という問いかけに対し、胸の内で考えている心の全てが疑いである、と堀尾は言い切る。自己の心情を少しの狂いも無く言い当てられた伊藤は、非常な驚きを覚える。堀尾は続けて伊藤に、阿弥陀仏の本願を説く。
「何をお前はそんなに思案してゐる? 久遠の親が、お前の心の底を見抜いた上で、其のまゝ来いよ! 引受るぞよと呼びかけて居られるぢやないか!」
その言葉を聞くと私はにやゝゝと笑つた。ほら見ろ! 案の如くおばさんは有難いことを言つて終つた。こゝだ! こゝにどうしても私の合點の行かぬ節があるのだ。長いあひだ眞宗の法話を聞いた者でなくては味へぬ詭辨と誤魔化しの手があるのだ。成る程、さうして如來様の慈悲の心を説き聞かされると有難いが、すぐまた疑ひの心が涌くではないか。 (『仏敵』三一頁)
伊藤の悩んでいる点はここであった。阿弥陀仏の慈悲の話、つまり法の救いを聞けば有難く感じられる。しかし時間が経てば、阿弥陀仏の救いに対して、本当であろうか? という疑いの心が再び出て来るのである。伊藤は浄土真宗の教えに対し、このような有難い話によって疑いの心を誤魔化しているという、腹立たしい思いを抱いているのだった。
一體眞宗の信者などといふものは阿彌陀様の名前を担ぎ出せば、萬事解決するので如來の豫定救濟といふことを前提として、その後は感情の自己手淫をやつてゐるのだ。 (『仏敵』三一頁)
伊藤の浄土真宗信者への批判は激しい。阿弥陀仏の慈悲を聞くのはありがたい。しかしそれだけで満足ではまた疑いの心が沸いてくる。 伊藤は真宗の信者は救いを持ち出して全て解決し、あとは自分で喜びを作り自己満足しているだけだというのである。伊藤の真宗信者への怒りは続く。
彼等は先ず淡い信仰の陶酔に耽る豫備手段として、盛んに理智の遊戯を試みる。やれ人生は無常だとか、人間は罪悪だとか、吾々は罪業の塊りだとか云つて、理知の批判をやれる丈やつて、その言葉に倦き、そろゝゝ情感の淋しさを憶え始めると、今度は矢鱈に澤山な詩的な人生を遊戯化した彌陀救濟の言葉を使つて、甘い感慨に耽らうとする。彼等の宗教書類でも、説教でも、信仰でも皆此の格律を守つてゐるのだ。さうして、此の理智より感情へ移る心理の法則は、せいゞゝ三十分か一時間で濟むので、人間の生活には何の關係もないのだ。 (『仏敵』三一頁)
浄土真宗の信者は、まず罪悪や無常を持ち出して理知への批判を行う。その後、そういうことに飽きて寂しさを覚えると、弥陀の救いへと移行して、甘く有難い気持ちになろうとする。ほとんどの真宗の説教、書籍がこのような構造になっているという。人間の生活と関係が無いことも腹立たしかった。
誰がそんな常套手段に蠱惑されて堪るものか! と私は腹を立てた。全く此の信仰は鰻をつかむ時のように、のらりくらりとして不得要領なこと夥しい。もつとどん底から涌き上がつて來い。不徹底は吾々の時代には葬り去らねばならぬ言葉だ。信じたのやら、信じないのやら、有難いのやら、有難くないのやらと云ふ間の抜けた解決を求むるためなら誰が始めから命を的にして求道するものか。馬鹿らしくもない。 (『仏敵』三一~三二頁)
真宗の信仰が明確でないことに対し、伊藤は非常な怒りを覚えているのであった。命をかけて求道するに値する、徹底したものがあるべきだ、と感じていた。
「おばさん、僕には佛様の話ならば聞きあいてゐるのですから―それより、もっと自殺するやうな人間が佛法で救はれたといふ話はありませんか」 (『仏敵』三二頁)
すると堀尾は、自殺を図りかけた女性を仏法を説くことで救った話を始めた。隣村に夫婦暮しの裕福な家庭があったが、この女性は夫の女性関係で大変悩んでいた。夫に苦情をいってもなおらず、悩み抜いた女性は、仏間にて服毒し短剣で自らの胸を刺そうとした。夫が慌てて止めたため一命は取り留めたものの、嫉妬は治らない。再び同じことを起こしかねないということで、隣人が堀尾に相談した。堀尾はその時のことをこのように語った。
‥‥佛法は自殺者を救ふ法でもないが、請はるゝままに行つてみると、成る程、その女は蒼ざめた顔をして眼付も険相である。そこで貴女は佛法の信心をどう心得て居られますかと訊ねると、こんな事を言ふ。わたしは佛間で自殺を計らうとするやうな惡人で、生きながら佛様の胸に五寸釘を打ちつけてゐます。こんなことでは救はれる資格もありません。
で私は言つた。それは間違つてゐる。如來様の本願は惡人女人目あてに救ふ心であるから、佛さまの前で自殺しようといふ浅間しいものこそ正客である。此の廣大な佛心を跳ねつけて、私は救はれぬといふのは、それ丈の言葉で如來様の胸に五寸釘を打ち付けてゐる! 大蛇のやうな悪人、そのまゝ救ふの親心ぢや! と示すと、えーつと言つた切り、回心懺悔して法に入つた。それからといふものは温和な婦人になり、夫も法で心を慰められるやうになつて元の通り平和な家庭で暮らしてゐる‥‥」
此の説得の仕方は餘程變つてゐる! と私は思つた。惡人と言ふ言葉の意味が、かうも違つてくると、世の中に無用な爭ひがなくなるだらう。それにしても、道徳から宗教へ飛躍した此の女の人は幸福だ。 (『仏敵』三三頁)
この女性への説得の話は明らかに、日常の善悪と仏法の上での善悪の違いを示している。女性は仏間で自殺しようとする大悪人だから、仏さまには救われないという。しかし堀尾は、むしろ仏間で死のうとするような悪人こそが阿弥陀仏の目当てであるから、死のうとすることは救いの障害にはならない、というのだ。
さらに堀尾は、その広大な阿弥陀仏への恩があるのに「自分は救われない悪人だ」と救いを拒絶していることこそが大悪人である、と女性に告げる。伊藤は、この説得は非常に変わっていると思う。一般的には、自殺を図ったことを諌めるのが普通であろう。それであるのに、仏間での自殺は許されているというのである。この具体的な話を聞いて伊藤は、仏法の救いで何が妨げになるのかを理解する。そして、仏法が実際の生活で生かされた場面を知り、満足を覚えるのである。
堀尾との会話が途切れた後、伊藤は死に瀕した堀尾がこれほど真剣になって自分の信仰を気遣ってくれるのに、阿弥陀仏や信心や死を遠い未来に延ばそうとする自分に恥ずかしさを感じた。自分の様な鈍感な人間は、一生涯苦しんでも果たして信仰が得られるのだろうか、と考えた〈35〉。
その後、四月に入って堀尾は危篤状態となり、伊藤は再び野口村へ向った。
(2)同行たちの激しい喜びぶりを見聞きして、非常な驚きを覚える。
野口道場には多くの見舞い客が集まっていた。堀尾は微かに息をしていたが、もう臨終も近い様子であった。葬式の用意もされている。見舞い客は堀尾を善知識として信心を喜んでいる者達であった。同行達の喜びぶりが余りに著しいことに伊藤は驚いたのであった。
ここで伊藤と出会った同行達を整理しておく。
植島藤太郎…隣村の薬屋。堀尾の世話をし、自分の親のように大切にしていた男性。
植島やゑ…植島藤太郎の親戚。六十歳前後の元気のよい高齢女性。
阿古長蔵…最初に堀尾の導きにより信心を頂いた。長老舎利弗のような雰囲気の人物。
海亀…南洋に住む海亀のような農夫。
ガマ…地雷也が神がかりにつかったガマのような見かけの男。
蛸…隣村の僧侶。
王様…伊藤と同じ年頃の青年。トランプの王様のような威厳を漂わせている。
おたふく…漫画に出て来そうな、顔の赤い丸ぽちゃの女性。
伊藤は最初、見舞い客達が個性的な面々であり、道場の薄暗さもあって、化物屋敷に来たような気持ちになる。堀尾の庵寺に同行が集まり出してから、九年の歳月が経過したと発言する者がいた。そして、このように同行が集まるのは今夜が最後であろうから、仏法について語り明かそう、という話になった〈36〉。
同行達が皆、各々の法悦を語る。ここにおいて他では見られないような、生きた妙好人の歓びを見ることができる。隣村の僧侶が地雷也のガマに話し掛ける。
「おい君!」
「何んだ」
「君の仏様は何処に居る!」
「ここだ」ぽんと廣い胸を叩いて答へる。
「自力で佛様を探してゐる間は大分脹れよったぜ」と如何にも可笑しそうに笑ふ。
「あつははは、俺ら随分佛様をお寺で探してゐた者じや」
「御聖教の中で探してゐる奴もある!」
「袈裟衣の中で探す奴もある!」
「胸の中で探す奴もある!」
口々に話すのを聞いて坊さんは腹を抱へて笑いこけた。
「どいつもこいつも通った道と見えて、よく知つてゐるのう」
おたふくがそれを受けて、「そりや蛇の道は蛇じやもの―」
おやおやと私は思つた一体此処は本当に化物屋敷じや無いのか知ら‥どうも変だ。
「智者や学者は聖教の立石を抱いて地獄へどれ込んで行くぞ‥はははは」
「智者や学者は、これがない、これがない」 と云って坊さんは人指し指と親指でまるい穴を造って見せた。
変に飛び出た目玉がギョロギョロとその穴から輝いている。 (『仏敵』四九~五〇頁)
同行達が口々に語った内容に、伊藤は驚きを覚えた。穴の開いた一文銭からは先が見える。智者や学者は金貨であり、穴がないので先がみえない。つまり後生の行く先が見えない、ということである。
その後、隣村の僧侶が一文銭の穴から伊藤を睨みつけ、早口に語る。
「貴方も一文銭やのう!」 (『仏敵』五一頁)
実はこの僧侶は、智者や学者のことを批判することで伊藤を挑発し、口を開かそうと声を掛けているのであった〈37〉。伊藤が黙っていると、僧侶は続けて海亀に話しかける。
「いゝか、よく聞けよ。蓮如上人が、かう仰せらるゝぞ、佛法讃談の席で黙つてゐる奴は、高慢な奴である」 (『仏敵』五一頁)
その言葉を受けた海亀が、以下のように続ける。
「そこにはまだ卑下慢もある!」 (『仏敵』五一頁)
僧侶も海亀も、仏法を讃談する場で黙っているのは、高慢であり、卑下慢でもあるといい、伊藤に話をさせようとする。伊藤は慌て出した。最初は勝手に渾名を付けて同行達の会話を軽視していたが、皆すでに獲信して喜んでいる者達であり、このままでは未信の伊藤は問い詰められて恥をかかせられる。
伊藤は自分の信仰が不徹底であることを誤魔化すために、会話を断わる口実として、餅を焼いて食べ始めた。ここからさらに続く問答が、伊藤を求道へと追い込んでいく。
おたふくが再び話し始める。
「私が御信心を戴いた時に隣村の賣薬屋の爺さんが來て、様々に有難い法話を並べて私を嬉しがらせて呉れたので、最後に何か御禮の言葉を掛けねばならぬと思つて「爺さんが地獄へ落ちるのが可哀相や」と叫んで泣崩れると、まあ驚くまい事か、碌に物も言はずに家を飛び出して敷居で足をドタンと打ち突けて逃げ出した」
これはなかなか話せると思つて私は喜んだ。私は性來かゝる禅味を帯びた話が好きだ。 (『仏敵』五二頁)
おたふくには、いくら売薬屋の爺さんが有難いことを話しても、未信であることが見て取れたのである。涙ながらにそのことを語ると爺さんは逃げ出してしまったのだ。さらに同行達の会話は続く。
「聴聞で踏み出している同行程可哀想な者は無い」と優しい奥さんが言つた。
「前に堺市の強信な同行とか云ふ人と對談して自督の安心を尋ねると、さあ! 並べるわ、並べるわ、聴聞のあり丈を並べ相に見えたので、中頃から一寸食ひ止めて、「貴女はそんな事を申されるが萬一それが嘘であつた日にはどうします」と云ふと愈々本音を吐き出した。
「實は私も嘘の様に思へる。餘り話が大きいので凡夫が佛になる等と云ふ話は造話の様に考へる」と言ひ出した。
「そんな疑がある以上は百座千座の聴聞も何の役にも立ちませぬ」と叱り飛ばしてぐつと押して行きました。惜しい所で他人が來て邪魔が入ったので入信せなかつたが、隨分世の中には、あんな間の抜けた聞き様をしてゐる者が多いと見える・・・ (『仏敵』五三頁)
いくら難有い話をたくさん聞きおぼえていても、本当に疑いなく信心があるのか、ということを優しい奥さんは問うたのである。口調はきついが、ここに集っている同行達の特徴は自分が喜ぶだけでなく、それを進んで人に語り、人にも勧めていき、積極的に法を説いていくという点である。
阿古は阿弥陀仏に対して薄紙一枚の疑いがあってもいけないという。
「惜しかつたなあ、薄紙一重! ほんの一寸の行懸ですなあ。けれども、その薄紙一重のために二世も三世も迷うて行きますわい」
坊さんはその話を受けて、早口で云つた。 「薄紙一重の所は、もう狩猟人が狙いを定めた所だ。木に止つた鳥に向つてドンと六字丸を發射するなり、コロリと攝取の光明の中へ落ちるのだ。久々常没の衆生あるが故に彼の大悲ありと言ふでのう‥‥」 (『仏敵』五三頁)
薄紙一重の疑いを問題にしていかなくては、次の世もまた次の世も迷っていくというのである。伊藤は冷や水を浴びたような気持ちになった。だが一方、いよいよ信心を得ることが近づくとなると、空恐ろしく魂の底から震えるようにも感じられた〈38〉。
続けて植島やゑが、しんみりとこう語った。
「私などは久しい間、法の上で苦しんで來たので、その最後のどん詰りの薄紙一重のために、どの位泣いたか知れませんでした。若し後生ほどの一大事が夜明けして日暮らし出來るならば、生涯橋の下の乞食生活を送つても厭はないと思いました。一時なんかは流行病が起つて皆が神信心したときに、私も一緒に神社へ参詣して、どうか往生の善き知識を恵んで下さいます様にと祈願さへ籠めましたぜ。まあ! この廣い大和中の同行や僧侶を尋ねる丈、尋ね歩いたが、誰も此の最後の一點を押して呉れるものが無かつたが、あのお婆さんが御出になればこそなあ!」
「この邊に信眼の開いた信者は、たつたお婆さん一人丈でした」と驚いた様に云ふ者がある。
「お婆さんが居なければ、私等は皆、信者顔をして地獄へ落ちる身であつた」
「一體どうした理でせうね。此頃は肝心の僧侶に獲信した方が殆んどゐない」 (『仏敵』五四頁)
植島やゑは長く求道したが、なかなか信の一念へ導いてくれる人に出会えなかったのである。ここに集まる人達は堀尾に会えたからこそ信仰が開けたのである。堀尾に会えた同行の皆が口々に檀那寺の住職の無信仰を嘆く。伊藤の横にいたガマが次のように語り出す。
「村の寺の坊さんが子供の學資金をたのむ節に云ふには、此頃は僧侶たる者も大分難しくなつて來た。世間出世間の知識を一から十から百から千まで知つて置かねならぬと云ふから、私は御尋ねした。貴方は一から千まで知つて置かねばならぬと仰有るが、肝心の阿彌陀様は何と仰有つて居られまするかい!」 (『仏敵』五五頁)
そう言ったガマは、伊藤を見ながら声を立てて笑う。
次に、ガマが獲信した時の話になった。この会話において、獲信の時に何が起り得るか、ということが窺える。泣き崩れる者、念仏が止らなくなる者などがある。
「うん! 俺はあのときには阿彌陀様の御慈悲が有難うなつて、泣くまいぞ、泣くまいぞと懸命になつて持ち堪へてゐるのに、此の胸のあたりから潮のやうなものが、どつと押迫つて來たので到頭投げ倒された様になつて泣き倒れて終つた。うわはゝゝ、なむあみだぶつ‥‥」 (『仏敵』五六頁)
この話に続いて、同じ部屋にいた女性同行の一人が、自身の体験を話し出す。
「始め私は晝御飯を炊てゐたときに、俄かに喉首のあたりに団子のやうな塊が押し詰つて來て一稱南無阿彌陀佛と飛び出す。これは不思議だと思つてゐる間に、續け様に団子の塊が念佛の聲となつて飛び出して來ました。私は有難うなつて煮焚きをそのまゝに打棄てゝ、此の道場へ走つて來る。道場に來ると家の火の用心が氣懸りになつて走つて歸る。家へ歸るとまた道場へ來たくなると云つた具合で、往復三回も致しました、がその間に団子念佛が後からゝゝゝどんゝゝと飛び出して來るので、息苦しくてゝゝゝゝゝ、本當に卒倒するやうに思ひましたぜ、あつはゝゝ」 (『仏敵』五六~五七頁)
様々な奇怪とも思える体験を皆が口々に話す。同行達が嬉しそうに獲信の告白をしたり、歓喜の念仏を称えているので、伊藤は動揺して身体を固くしていた。しかし夜も更けてきており、トランプの王様が就寝するようにと声をかけてくれたので、伊藤は席を立つことが出来た。
伊藤がしばらく外を散歩してから庵寺の寝室に戻っても、本堂は相変わらず同行達の仏法讃談の声で騒がしかった。伊藤の心には突如、反逆の精神が燃え、本尊を燃やし尽くし人々を焼き尽くすことを夢想する〈39〉。
しかし伊藤が空想に耽っている時にも、同行達の念仏の声や聖教を読む声が鳴り響くのであった。そのような中で、野口村のおちかという女性が信心開発したようであった。おちかはこのようにいった。
「あら! まあ、ほんまに不思議なことや! 私が只今泣いてゐたのは、あの正面佛壇の御障子が、みんな開けてゐて、金色の光明に乗つた阿彌陀様が私の眼の前に來て居られるから、吃驚りして啼いたのです。まあ! まあ! 不思議なことが有れば有るものや、有難い、有難い」 (『仏敵』一〇五頁)
おちかに対して、植島やゑが次のように言葉をかける。
「如来様は、一度はゝゝゝ衆生の口から、不思議の聲を擧げさせなければ措かぬと誓はれたが、今がお前の口から不思議の聲があがつた所や! えらい幸福者になつて呉れた!」
「お婆さん、私は今日の晝頃から何か知ら、かう有難とうて獨り物蔭で泣いてばかりゐました。何故と云ふに道場の庵主様が大病になつたのは、村の尼講の私等が出来る丈の介抱をせなければならぬのに、遠い村々から御出になつた貴方等が私等に代つて、親身も及ばぬ行届いた看護して下さるのが有難うて勿體なうて、獨り泣いてゐました。それに、まあゝゝ、こんな大きな御利益を蒙るとは夢にも知らなんだ。不思議や、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」 (『仏敵』一〇五~一〇六頁)
伊藤はその様子を寝室で聞いていたが、皆が口々に、伊藤も本堂に残って仏法の話をすればいいのに逃げたと噂するのを聞いて、腹立たしい思いを抱いた〈40〉。しばらくして伊藤が眠りかけたところで、トランプの王様と名付けた黒田青年が隣の夜具に入ってきた。伊藤は、この質素な身なりだが常に念仏を喜んでいる青年と話したくなった。黒田は言った。
「わたしはたつた六字の名號が物足り無うて、どれ位に苦しんだか知れませんでした。あの植島のお婆様や、阿古様が膝を叩いて御念佛を悦んで居られるのに、私はそれが頼より無いし、後生は暗いしするから、顔が青く膨れるまで考へ抜きました。やつと六字名号で腹がたんのうするまでは、半年餘りもかゝりました‥‥」 (『仏敵』一〇九頁)
本堂ではまだ熱心な同行達が、信楽開発の体験を語っている。伊藤は、寄宿舎を出ていった学友北村のことを考え、彼はどこを彷徨っているだろうか、と考えた〈41〉。
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