第三章 第二節 『仏敵』にみられる伊藤康善の宗教的経験
第一項 仏敵について
伊藤の主著であり、求道者に多くの影響を与え続けてきた『仏敵』は、これまで本の形式を変えて繰り返し、出版されてきた。『仏敵』とは、仏智に対する疑心のことである。
『仏敵』には、発行所や併録作品が違ういくつかの版が存在する。昭和十年発行の『仏敵』の奥付を確認すると、発行所は医療法人仙養会の北摂病院出版部となっている。収録内容も『仏敵』だけでなく、その続編といえる『善き知識を求めて』、そして『真宗安心一夕談』の三編で構成されている。また昭和十三年に発行されたものを確認すると、発行所は伊藤の自坊である當専寺となっており、内容は『仏敵』、および『仏敵』に登場した人物のその後を記した『同行順禮記』の二編となっている。その後、『仏敵』のみ収録したものが華光会から出版された。旧字体で書かれた『仏敵』は、現代語に直されて二〇〇三年に春秋社から再刊されている。このように様々な形式で求道者に読み続けられた求道書である。
春秋社版『仏敵』には、「終わりに」という章名で、伊藤から華光会を引き継いだ増井悟朗が解説文を寄せている。それによると伊藤が『仏敵』を書き始めたのは、一九一九年である。二十二歳の春、伊藤は仏教大学(龍谷大学の前身)三年生だった。物語の内容は、伊藤自身の体験告白が主である。しかし、奈良県の同行達から聞いた法話や体験談が非常に感動的だったため、それを記録したいという意図があった。
執筆開始から約二カ月で仕上げたが、約三年かけて修正し、一九二一年に完成させている。その修正の要点は、「私」という一人称を中心として、真実信仰の内容を文字形式に置き換えることであった。同書の内容は創作ではなく実話であり、登場人物の名前については、同行達は実名であるが、学校関係者は全て仮名を使ったという〈11〉。
わしは、その前後のことを、くわしく大学ノートにメモしておいた。その後、東京に出て就職してから、ドストエフスキーの『罪と罰』を手本にしながら、約三百枚ほどの原稿用紙にまとめて書いた。本の題は、植島藤太郎さんに言われた「あなたは、仏敵ですぞ」という言葉が、一番胸にこたえたのであるから、それで『仏敵』とした。仏敵という言葉の中に、深刻に、仏法の体験がうち込まれていると、わしは、今でもそう思う。とにかくあの本は、君ら若い人たちに、ずいぶんとよく読まれた本じゃな。〈11〉
伊藤が、大学当時から敬服していたドストエフスキーを手本に『仏敵』を書いたことが分かる。題名も、同行の一人であった植島藤太郎から言われて一番堪えた言葉である「仏敵」から取ったのである。
その頃の浄土真宗関連では、近角常観(一八七〇~一九四一)の『懺悔録』が有名で、大きな信仰運動となっていた。また暁烏敏(一八七七~一九五四)の『触光手記』や『歎異抄講話』等の作品もあった。しかし伊藤は、いずれも優れた文章ではあるが『仏敵』のような焦点がない、と感じていた。
何とか東京に出て自費出版してでも世間を驚かせたいという熱望から、伊藤は、東京の野依秀市の「真宗宣伝協会」に飛び込んだ。その時の様子を伊藤はこのように語る〈11〉。
わしは、大正の末に、今の龍谷大学を卒業して、東京に行き、はじめて「真宗の世界」社へ就職 した。『真宗の世界』は、『実業の日本』の野依秀市が社長であった。 紹介状を持って、初めて社長の野依に会うた時、野依は、「フン」と鼻先であしらうような態度で、「おまえが、伊藤というやつか。文章が書けるか。ちょっと、この文章を直してみよ」と言って、そばにあった校正刷りを投げて、出て行ってしまった。「ようし、くそ」と思って、その校正刷りの文章を、片っ端から、赤ペンで線を引いて、紙が真赤になるほどにズタズタに直してやった。夕方、帰ってきた野依が、それを見て、「フーン」と目を丸くして、驚いていたのがおかしかった。
とにかく、ここで働いていた三年間は、面白かった。松岡譲をはじめ、若い文学者たちとも、知り合いができた。『仏敵』の原稿は、そのころすでに、三百枚ほどにまとめて書きあげていたが、なんとかして、これを出版したいと念願していたものだ。『同行巡礼記』を書いたのも、このころだった。
この野依の様子から伊藤が達筆であったことと、『仏敵』を出版することへの熱意が感じられる。伊藤はなんとしてでも、自分が巡り遇えた獲信の体験を世に広めたかったのである。
その後、「協会」は『実業之世界』編集局と同じ建物で作業することになった。「真宗宣伝協会」は仏教談義に人が寄り付かず寂しいものであったが、次の部屋では、政界・財界・文壇の大立て者たちが出入りしていて、その結果、大勢の知人が出来た。中でも夏目漱石の高弟で、『法城を護る人々』を刊行して名を馳せていた、松岡譲(一八九一~一九六九)と知り合い、芥川龍之介への紹介状を書いてもらうなどしたという〈11〉。
一九二三年に入って、伊藤は編集長となった。そこで正月号から、無断で『仏敵』の十ページ分を掲載したところ、文壇の松岡や安成貞雄に激賞された。以降、連載の反響が日増しに大きくなっていたが、その年の九月一日の関東大震災で、社の建物は崩壊した。幸い伊藤は、自坊で臨時休暇中だったので命は助かった。そして完結まで仏敵の連載が続いた。完結後、松岡は「既成文壇の塁を摩する名文もあり、これは将来真宗教界に一つの文献として残るだろう」とまで評価し、文壇人の西村独境からも 文学として見た長文の批判の手紙をもらったというv。やがて野依の好意で、小さな本の形式で出版されると、信に目覚める人の出ることを願って、方々に寄贈。宗門からも龍谷大学教授の深浦正文が我が子の誕生のように褒め、梅原真隆も『中外日報』で紹介したという〈11〉。
その後、伊藤は、京都薬師山の結核専門の国嶋病院で布教を開始するが、そこで五千部が売り切れた。死を目前にした患者が信仰を求めて読んだものであり、伊藤への礼状を書く時間もなく死んだ青年は何千人といるだろうと伊藤は推測していた〈11〉。
戦後は、龍谷大学生を対象に『仏敵』の普及に努力した。病院時代に端を発していた信仰雑誌『華光』と共に、これがやがて華光会としての信仰運動に展開したのである〈11〉。
一九五七年、伊藤は十ヶ月のアメリカ布教に出た。現地で伊藤が驚いたのは、行く先々で『仏敵』が戦時中の唯一の求道指導書として、何百人かの日系人が通読していたことであった。『仏敵』は発行当初から多くの人に読み継がれた。初期は国嶋病院の結核患者を中心に、のちにアメリカの日系人にも読まれた。現在も求道者に影響を与え続けている本である。
『仏敵』を求道指南書として獲信した西光義敞は、この書の特徴を次のように表現する〈11〉。
とにかく人の真宗理解を論評批判するだけではなく、その根拠になっている自分の聞法求道、獲信体験を告白物語風に書いたのが『仏敵』なのです。伊藤先生を入信に導いたのは、宗学研究もさることながら、在家の篤信者たちであることに心ひかれるものがあります。
一般に真宗の学習を教養レベルの勉強から入っていくと、だんだん頭でっかちになっていく傾向があります。実感から遠いところで二種深信とか、自力他力はどうだとか、論理を観念的にこねまわす学者になりかねない。だから、理屈はさておいて「あなたの領解はどうか」と問われたら、黙り込んでしまう。真宗においては学問も大事だけれども、学問だけでは、他力回向の信心を各人が正しくいただくことに焦点を絞っていくようにはなりにくい。だから大学の仏教研究には問題があると私には思えますが、それは余計なことですね。
西光は『仏敵』が素晴らしいのは、無学の在家篤信者達が伊藤を獲信に導いたことである、という。浄土真宗を学んでいくと知識の上での理解は深まるものの、個人の信仰の指針とはならないのが問題であるというのである。
それはさておいて、習慣的、惰性的、自己満足的な信仰に安住していた浄土真宗のかたで、『仏敵』を読んでこれではダメだと求め直し、聞き直したという人は多いようです。 私の場合もこの本を読んでいるうちに、次第に胸騒ぎがしてまいりました。普通の信仰の書というのは、読んでいるうちに、良いことが書いてある、ありがたい言葉が書いてある、このような言葉は好きだなと、読めば読むほど心の滋養になる、そういう感じでしょう。つまり自分の心に副うものは、ああこれは面白い、ありがたいと受け取るという感じで、「ありがたや」を育てる本が多いと思うのです。
でもこの本は違った。それは自分のもっているもの、慶んでいるもの、そういうものを次から次へもぎ取っていくような気持ちの悪い本だったのです。何でもない在家のお婆ちゃんが、「あんたの心の中には説教師が住んでいませんか。それでこれでよろしいでしょうか、それで良い、それで良い、という対話をくり返していませんか。これで私の信心は良いのでしょうか、否、そのまま、そのまま、それがお他力だよ、というような問答を心の中でくり返していませんか。そのような信仰は浄土真宗の信心でも何でもない、それを自力というのだ」と語る場面が出てきます。
この言葉が私にも突き刺さりました。「捨てものと拾いものとは、どういうことか」と自問してもさっぱり答えが出ないんです。曲がりなりにも大乗仏教の研究を数年間やってきたその知識を総動員し、いままで聞いてきた浄土真宗のみ敎えを総動員して自分の心の中を叩いてみても、何が捨てものやら何が拾いものやら、かいもくわからない。この要の一点がわからなかったら、浄土真宗がわかったことにならない。〈11〉
西光は、『仏敵』を読んで自己の信心を問い直した人が多いという。通常、信仰書というものは、読んでいて有難くなったり心に沁み入ったりするものであるが、『仏敵』は読者の喜びをもぎ取っていくような気持ちの悪い本であったという。西光にとって、在家の老婆が自力を責める言葉が心に突き刺さった。そして、自力と他力の廃立が全く分からないことに気づき、それまで西光が持っていた信仰は崩れたのである。
このように『仏敵』は、他の信仰書とは一線を画した、自らの信仰が厳しく問われる内容を持つ本であるといえる。