第三章 第三節 『善き知識を求めて』にみられる伊藤の教学の形成
本節では伊藤の教学に対する考え方を確認するが、その前に、宗学と教学の定義、そして本論で扱う解釈を明らかにしたい。
宗学は護教的であり、自分の宗派を他の宗派から守ろうとする性質がある。伊藤の生まれた明治時代になって、浄土真宗も多大な変更を余儀なくされた。キリスト教の布教も許され、西欧の思想、哲学、さらに西洋の仏教研究が入ってきたことで、歴史学的、文献学的な研究が始まった。それによって今までの宗学の立場の護教的な立場を離れ、客観的資料を基とした真宗学が始まるのである。伊藤はちょうど真宗学の流れが始まった激動の時代に仏教大学で学んだこととなる。
本研究の位置づけについてであるが、本論のテーマは「近代真宗教学史にみられる獲信解釈の研究」である。教学史としたところで、筆者の「教学」の理解について述べておく。「教学」が意味するものとして、深川宣暢(一九五三~)は二つの意味が内在するという〈69〉。一つは、普遍なるもの、いつの時代にも普遍的に妥当するもの。もう一方は、ある個人や団体が、ある時に為した限定的なるもの、という意味である。その意味で言えば、伊藤の教学は後者に相当するであろう。
また清沢満之は、教義とは親鸞の教えを指し唯一無二のものであるが、教学はある個人の時代背景や社会状況が反映されるものであり、そこにおいては研究の自由が保障されるべきだという〈70〉。
これより本論では、伊藤の教学は明治という時代に生まれたものとして捉え、またそれが、教義である親鸞の教えから検証するとどう捉えることができるのかを課題としたい。
さて、『仏敵』の続編ともいえる『善き知識を求めて』は、一九二五~一九二六年に執筆されている。『仏敵』を書いたのが一九一八年であるから、その約七年後に記したものである。この書は、伊藤の獲信後の苦悩を詳細に記したものである。獲信後にどのような心境の変化を経験し得るか、この書ほど具体的に記されているものは他に例を見ない、貴重な書である。またこの書において、称名本願を主張する島村自責居士(本名・島村清吉)に師事をしていた樫根という真宗信者を相手に、伊藤が論戦を繰り返す過程において、伊藤の教学理解が形成される点も注目に値する。
同書の前半は『仏敵』と内容が重なり、伊藤の獲信までの過程が記してある。特筆したいのは後半である。伊藤が信後、どのようなことに悩み、それを解決していったかという部分である。
前半で獲信の場面を書いた後、伊藤は次のような文章を記し、信後の悩みがあったことを告白する。
私が此の邊で『善き知識を求めて』の原稿を締切れば或種の讀者は私の心境を非常に買ひ被るかも知れない。文學的物語とせば、此の邊をヤマとして終る方が効果が多いし、又刹那の相を永遠の相に於て活かすのが文學の使命とすれば、それで好い譯だが、今回執筆する意向は、その後の經過と惱みの多くなつた現代にまで及びたいので、勢ひ恥を曝らし肉の切賣をせねばならぬ。私は其後學校へ來ると此の靈感に重心を置いて、信仰に入るまでの歴程を刻明に記し始めたのだが、二ケ月ばかりして大部の頁になる下手な記録が出來上がると、すつかり拍子拔けの態になつて了つた。感激時代は春の季節三ケ月間だけで、肝心の信仰が何處へやら飛んで仕舞つた。 (『善き知識を求めて』五四~五五頁)
伊藤は求道および獲信体験をしてから、すぐに『仏敵』の執筆を始めた。しかし二ヶ月ほどして大方書き終わると感激が消失してしまい、肝心の信心も見当たらなくなった。
まさか、あれ程の事件を夢であつたとは思はないが、お聖敎を拜讀しても、最初ほどの喜びも涌いて來ず、ハテこれは不思議だと更に一段と聲を張りあげて、難有くなるやうに節までつけてみると、今までと違つた腹底の拔けた念佛で自然と法悅もあるが、さう何時までも念佛三昧で居られる譯でもなく、最初豫想した信仰界の風味とはさつぱり趣きが變つて來た。 (『善き知識を求めて』五五頁)
劇的な獲信体験を経た伊藤であったが、聖教を拝読しても有難くなくなっている。以前とは違い腹底が抜けたようであり自然と法悦があっても、伊藤が予想していた他力信心の世界とは違うのであった。
後生の不安もない。信仰に對する惱みもない。馬ふるれば馬を斬り人ふるれば人を斬るといふ切實な求道心もない。現代の心は如何と問ひ詰められると、たゞ廣い伽藍堂の中に自分一人がぽかんと坐つてゐるやうで、これと云つて不服はないが、何んとなく寂寥を覺える。言はゞ信仰生活に對する緊張味が足りない。信念と云ふのは頭の槪念でさう考へてゐる丈で、曾て起つたやうに胸中から潮のやうに 歡喜の光明が涌いて來る様子もない。 (『善き知識を求めて』五五~五六頁)
伊藤には後生の不安も無く、信仰に対する悩みも無く、求道心も無かった。しかし、何となく寂しさを感じるのであった。かといって大きな不服があるわけでも無い。ただ獲信した時のような歓喜が無いのが物足りないのであった。
そして伊藤はこのような時期に、他力信心について論戦を重ねることとなった。
或る日私は祖父の隠居寺で法事を勤めてゐると、その村の一の檀家から招待せられた。樫根といふ地方での富豪で、強信な念佛者として名の知れた人であつた。私の喜んだ話も薄々聞いてゐたらしく、一つそのご緣にあひたいといふことだつた。私は消えかゝつた信念に勇氣をつけて、特意の體驗談を一席やつた。
默つて聞いてゐた樫根翁は、にやりと凄い笑ひ方をした。
「お話を聞いて、誠に御熱心なことには感銘いたしますが、それは法を求めた者が誰でも通るありふれたことで別に珍らしいことでも無いのです」 とあつさり私の己惚心を冷かしてから、
「一たい私は野口の庵主さんなんか化土往生だと思つてゐます。信心を戴いたら泣くの笑ふのと云ふのは全く狂氣の沙汰です。泣くのが信心なら猫や鳥は毎日泣いてゐます。人形だつて泣きます。それがどうして御淨土參りの證據になるのです。どだい百姓だとか、藥屋だとか、どこの馬の骨か解らないやうな人間に、僧侶ともあらう貴方が頭を下げて聞くのは何たる醜態です。私達は祖師聖人の敎を聞かなくてはなりません。聖人は立派な聖敎を殘されてあるのですから私等は聖敎を句面の如く拜讀させて戴いて自分の正しい安心を決定せねばなりません」
と眞正面から切り込んで來た、 (『善き知識を求めて』五七~五八頁)
伊藤はある日、島村自責居士に師事している樫根という富豪と対面した。伊藤の獲信体験を聞いた後、樫根はその体験に異議を申し立てた。樫根は堀尾のことを化土往生だと非難する。感情的に騒ぐのが獲信ではないと主張し、聖典の上で自己の安心を決定するべきだという。
そして樫根は、筆談による信心問答を申し込んできた。
「問うて曰く、貴下は何を信ずるか」 といふのが、質問の第一矢だ。
まさか虚空を信ずるとも言へないので、 「南無阿彌陀佛を信ず」と答へた。
「南無阿彌陀佛とは何ぞや」と來た。
一寸挨拶に困つた。
宇宙とは何ぞやといふ風な質問だからである。
「こんな大きな問題をさう簡單に答へられません」
「いや、此の際口で辯つて貰つては困ります、何でも好いから貴方の知つてゐる事を書いて下さい」
「サァ、弱つた」と頭を搔いたが、仕方がないので、御文章にあるやうに、 「彌陀たのむ者をたすくるいはれなり」と書いた。
「然らば南無阿彌陀佛とは、たのむ者をたすくる意味なりや」
「然り」
「然らば問者の安心は自語相違す、最初に自己の安心は南無阿彌陀佛を信ずと答へたり。南無阿彌陀佛がたのむ者を助くるいはれなれば、これを信ずるとは、たのむ者を助くるといふいはれをたのむなり、例へばこゝに藥あり、藥を呑めば病は治る也、されど藥を呑めば病は治るといふことを信じた丈では未だ藥を呑まず、念佛に於ても亦然り」 と書いてから筆を投じて「どうです」といふ。 (『善き知識を求めて』五九~六〇頁)
何を信じるのかと問われた伊藤は、南無阿弥陀仏を信じると答えた。次に南無阿弥陀仏とは何かと問われた伊藤は、たのむ者をたすける意味である、と答えた。すると即座に樫根は、伊藤の矛盾を指摘した。たのむ者をたすけるという意味であれば、その謂れを信じただけであり、南無阿弥陀仏を受領したわけではないと断じられ、伊藤は論破された。
『大體貴方と云はず、僧侶方の安心の据りは私によく解つてゐるのです、最後は、此の機このまゝのお助けだとお慈悲一點張りで押して行くのです。私も最初の間は、そんなくせ法門に欺されてゐたのですが、其後島村先生に會つてから、すつかり此の安心は邪義、異安心であることを知つたのです。
第一此の機このまゝのお助け等といふ文句は、聖人の聖敎の何處を見ても一ヶ所も書いてない。聖人は信心と云へば稱名本願―――稱へる者を助くる本願を信じて念佛を稱ふることだと判然と仰せられてゐます。只で助くるとか、絶對無條件の救濟だとか、お慈悲で助けるとか、そんなくせ法門は彌陀の本願にも無ければ、親鸞聖人も知らず、末世の生臭坊主が自分の安心に都合よい樣にこね上げたものです。
だから私等の方では本願寺本願を知らず、佛光寺佛法を知らず、興正寺正法を興さず、専修寺専修を行ぜずと四ヶ格言を叫んで敎界安心の革新運動をやつてゐます。
それに本願寺の學者共が、空華だの、何だのと變な學哲を生んで、屁理窟をこね廻してゐるが、わしは腹が立つてどうもならん。世が世ならば、そんな學者共の首は片つ端から刎ね飛ばしてやりたいと思ふ位です』
といふ正に當るべからざる萬丈の怪氣焔だ。 (『善き知識を求めて』六〇~六一頁)
樫根は島村を善知識と仰いでおり、親鸞の信心は称名本願であり、本願を信じて念仏を称えることこそが正しい信心であると断言する。聖典の上でもそのように示してあることを根拠にして、本願寺も仏光寺も間違っていると主張し、革新運動まで行っていた。伊藤はこのような論戦を通じて、教学の重要性を認識した。
信仰は勿論學問で理解出來ず、生活體驗から出發しなくてはなるまいが、併しその體驗的な信仰も確りとした宗學の原理を認識してゐなくては自ら迷ふのみならず、人々も迷はすものである。其後新しい信仰を叙べた人々が頻々と異安心問題で馬脚を顯はすのを見ても、結極佛敎の原理や宗學の認識に不足してゐる爲に起るのであると痛感した。 (『善き知識を求めて』六四~六五頁)
この問答は、真宗の宗学で昔から論じられている行信論であった。伊藤は樫根との問答を通して、信仰は体験が出発点ではあるものの、宗学の原理を理解していなければ、自分も他者も迷わすことになると痛感させられた。
樫根は本願寺の勧学寮に、行信論に関する質疑書を提出していた。本願寺の勧学寮は、樫根のことは相手にしていなかったが、その師である島村に対しては、異安心の筆頭として恐れをなしていたという。最後には学頭である是山惠覺と島村の対決となった。しかし島村の主張は、是山の恩師である石泉僧叡の学説であったので、是山は苦しい立場にあったという〈71〉。伊藤の著書『安心調べ』には、島村の信仰について詳しく記してある〈72〉。
伊藤と樫根は十五、六回に及ぶ問答を行った。問答で負けると、伊藤は大学や雲山龍珠勧学(一八七二~一九五六)の自宅で反論する方法を習い、また行信論の文献を読み込んだ。樫根も同じく、島村から知識を得て応戦するといった攻防を繰り返した。この結果として、伊藤は無数の宗学者の名前を覚え、行信論に関する様々な説を理解した〈73〉。この問答が伊藤の教学理解を大きく飛躍させた。
淨土眞宗の根本は佛説大無量寿經であり、大經の中でも本願成就文を以て安心の至極とする。願成就を腹に疊み込んで、一切の問題を批判して行くのが眞宗である。聞其名號、信心歡喜、乃至一念の中に一生參學の大事が決定する。
此の名號は法體大行の名號で聞きものであり、戴きものである。信の一念に名號の功徳を全領するときに吾等の往生の正因は定る。信の一念に稱名はない。聲にかゝる信後の稱名は報恩行であり、不斷佛種の行である。
善導や法然の一願建立の稱名本願は、大經當面の釋でなく、歡經下下品を合釋せるものである。下下品の念佛往生は化土往生であるが、見方に依れば報土往生ともなるべく、この念佛には穩顯の密意がある。
されば稱名本願にも穩顯がある譯であらう。此の行に捉はれる者が、願成就の乃至一念も稱名と見るのであるが、それは未だ願成就の眞面目に徹した者ではない。眞宗の敎權を知らず、高祖の信巻を色讀せざる者であり、覺祖蓮師と相承する敎を知らぬ者である。一歩誤れば祖門の敵である。眞宗は世間が考へるやうな單なる念佛法門ではない。絶對信の敎である――― (『善き知識を求めて』六五~六六頁)
伊藤は樫根の応戦に対して、教学で論破できるほどに育った。浄土真宗の根本は本願成就文であり、これを中心に一切の問題を批判していく。信の一念において名号の功徳を頂くときに往生の正因が定まるのであって、成就文においては信の一念に称名は無い。よって樫根の主張は誤っているのである。真宗は単なる念仏法門ではなく、信心の教えである、という理解である。
さてその戴きものであり、聞きものである、南無阿彌陀佛の六字を、お前は貰うたのか、信の一念が通つたのかと問はれると、一寸待つて呉れ! と小首を傾けねばならぬ。 (『善き知識を求めて』六六頁)
しかし伊藤は、樫根との問答を通して宗学の理屈を一通り理解したものの、本当に信の一念に遇い獲信したのか? と自己に問うと、懐疑を抱いた。この事は、宗学理解が深まることと獲信体験とは別物である、ということを示唆している。
確にあの時に貰うた筈ぢやが……と古い信仰記録を取り出して讀んでみると、その當時の喜びは歴々と思ひ當るが、今では成金が再び株で失敗して元の歩になつたやうな慘めな心状である。彼も一時なり、此も一時なり、時の戯れの怪しさよと達歡するが、どうも、その戯れが恨めしい。困つたことになつた、何故だらう。純粹な他力信が徹底したのならば露塵ほども疑が起らぬ筈である。若しや自分の戴いたと思つた信の中には―――一味磨す可らざる自力の疑情が潜在したのではないか? さう思ふと私は一方では、まさかそんな筈はあるまいと否定しながら充分な自信が持てなかつた。こればかりは宗學をいくら微細に研究しても、解る筈はなく、聖敎を穴のあくほど拜讀しても、そんな秘密は説いてない。 (『善き知識を求めて』六六~六七頁)
伊藤は『仏敵』の元となった信仰記録を読み返してみたが、その当時のような心境になれなかった。
そのため、まだ自分には自力疑心が残っているのではないか、と伊藤は危ぶんだ。又、そのことに対する答は宗学には見出せなかった。伊藤は、植島藤太郎と植島やゑに不信を問うことにした。訪ねた先で伊藤は、植島らに次の問いを発した。
「あの時に僕は三毒の心で彌陀をたのんだのでは無いでせうかね、後生が恐くて飛び立つやうになつたのは、三毒の煩惱―――生きたいと焦る自我が、荒れ出したのでは無いでせうか」
「それは大間違です」と植島氏は嚴然と云つた。 (『善き知識を求めて』七一頁)
伊藤は、自分が煩悩の心で阿弥陀仏をたのんだのではないか、と問うた。これに対して植島藤太郎は、明確に否定した。
あれは御廻向の機で彌陀をたのんだのです、三毒の煩惱は欲しい、憎い、可愛いの心で、こんな心の何處を押せば後生が苦になる等といふ殊勝な氣が起りますか。あのやうに無常の大事が痛切に知れるのは、佛の光明に育てられて南無の機が知れて來た證據です。これは如來樣から發願して廻向される心です。
御廻向の機で南無と彌陀をたのむから、即是其行の阿彌陀佛は間髪を容れずに現はれる。 (『善き知識を求めて』七一頁)
植島藤太郎は、煩悩の心においては後生が苦になるような気持ちは起きないという。後生の一大事が痛切に知れるのは、阿弥陀仏の光明に照らされ、衆生の機相が知れてきたからであるという。阿弥陀仏をたのむのは、飽くまでも阿弥陀仏から廻向された心である、と説明する。
落機の知れた南無の心は、阿彌陀佛の救ひの聲に離れたものでなく、阿彌陀佛の救ひは南無の落機と離れたものでない。機法一體の南無阿彌陀佛です。若し此の煩惱の心で彌陀をたのむならば、そのまゝ救ふぞの勅命を、このまゝお助けと返事して受取ることになる。受取つても、その心は刹那に消滅するから、何遍も勅命を聞かなくては安心ならぬのです。これなら機法合體です、彌陀の勅命は呼び切りです、勅命がかゝると同時に生死の迷を切つて貰ふのです、だから南無の心の上に勅命がかゝらぬと大安心にならぬのです」 (『善き知識を求めて』七一~七二頁)
植島藤太郎は、煩悩の心で阿弥陀仏をたのんだ場合は、本願の勅命を受け取ったつもりでもその心は瞬時に消滅するため、繰り返し勅命を聞かなければならなくなるという。これは機法合体であり、機法一体ではないという。この説明を聞いて、伊藤の不審は解けていった。
私の惑ひは薄紙が取れて行つた。
「さうですかね、私はまた自力心で頼んだのではないかと思うてゐた」
「そこはよく同行の聞き間違ひを起すところで、佛智の不思議は凡夫の機功を交へずに、法をとどけて下さるのです、私の方は只地獄行の落機一ぱいで逆謗の死骸になる丈なのです、それも自分から成らうとして成るものでない、南無阿彌陀佛の獨り働きで、落機が知れるのは南無の機がかゝつたのです………仲々この落機といふ奴は、いくら自力で焦つても知れるものぢやありませんからね……」 (『善き知識を求めて』七二頁)
植島藤太郎は、阿弥陀仏の働きによって、衆生の側は逆謗の死骸と知らされるだけなのであるという。植島やゑは、自分の信後の悩みがどうであったか語る。植島やゑも獲信した後に信心について悩んだという。
「坊んち!」とお婆さんが言つた。
「私と一緒に法を知らせに參りませう。さうして法に迷うてゐた人が獲信する時の有樣を見るとよく解ります、自分の信の時は何が何やら解らぬものです、赤ん坊が生れた時を知らぬと同樣で……さう云へば私も信後で迷うて、ずゐ分皆に迷惑をかけたのです」 (『善き知識を求めて』七二~七三頁)
植島やゑは、ともに人々に布教をしていこう、という。自分の獲信体験は客観的に見ることが出来ないので何が起ったか分からないが、他人の場合はよく分かるという。植島やゑも自己の経験した悩みを語る。
「そりや此のお婆さんの入信も激しかつたが、信前に餘り苦しんでゐたので、信後にその病が出て皆が弱つた。一緒に泣いたり喜んだりして居り乍ら私はまだ信を貰うて居りませんと駄々をこねるのです、佛智は届いてあるのだから、勝手に愚痴を言ふが良いと云つて捨てゝ置いたが……」
「いやその頃は皆が充分に法義も知らなかつたので捨てられた私は、非常に弱りました……が時が經つて身體が丈夫になると自然に落着きました、矢張り聽聞不足もあつたし、それに法に熱心な人に限つてよく信後の迷ひも起り勝なものです」 (『善き知識を求めて』七三頁)
植島やゑは、獲信するまでの悩みも激しかったが、信後も同じくらい悩み苦しんだという。仏智は届いているのに、まだ信心を頂いていないと騒ぎ、周りの同行達を困らせていた。その原因のひとつは聴聞不足であったということである。そして、法に熱心な人ほど信後の悩みも起こしやすいものだという。
「とにかく同行學をおやりなさい。人に信を取らせるにはコツがあるから……」 (『善き知識を求めて』七三頁)
この植島藤太郎の台詞に、同行学という言葉が出て来る。同行学とは、布教をして人々に信をとらせ、お互いの信心を語りあうことである。その同行学をすることによって、信後の悩みは自然と収まるというのである。
植島らの説明を聞いて、伊藤は自己の信心の領解が、善導大師の六字釈に合致することを発見した。
段々話を聞くに隨つて私の氣分も朗かになつた南無といふは歸命なり、亦これ發願廻向の義なり、阿彌陀佛といふは其の行也といふ六字釋に自分の體驗はピッタリ合つてゐるでないか! この上何を求めて惱むのだ。それに地上に稀な御同行の證誠護念もあるでないか!
文學や哲學にかぶれ吾々の惱みは、自分の氣分を餘り尊重することだ。如來の本願は、そんな細い神經質の感情の動搖ではない。鐵の如き意志を以て成就された眞理だ。その晩私は久しぶりで一杯飲んで愉快に笑つた。宵に泣いた涙は再び歡喜の涙に濡れてゐた。 (『善き知識を求めて』七三~七四頁)
伊藤は、自己の信心が聖教と照らし合わせても一致するものであり、また稀で素晴らしい同行に守られていることに気付く。この以上悩むことは無いと思い、文学や哲学にかぶれている自分達のようなものは、自分の気持ちを尊重しすぎる傾向にある、と自己批判をする。そのような感情によって揺れるような本願ではないのだと、伊藤の心は久しぶりに晴れ、歓喜の涙を流すのであった。
このような過程を経て、伊藤の信後の悩みは解決した。以上より、信後の悩みを解決するために、次の事項が挙げられるであろう。
まず宗学を理解した上で、自己の信心が教えに適っているか確認すること。伊藤は樫根との論争過程を経て宗学理解は深まったが、自己の信心と教えが一致せずに悩んでいたのである。そして後に改めて、自己の信心と聖教が一致するものであることを発見したのである。そのために伊藤は、獲信した同行達と交わり、不審を問い、お互いの信心について語り合った。また植島らは、求道者に法を知らせていくことの重要性も指摘している。これを「同行学」という。
現代の真宗教界において、圧倒的に欠けているのがこの同行学であろうと筆者は考える。