第四章 第一節 第二項 『悟痰録』にみられる宗教的経験
『悟痰録』は伊藤が編集した作品の中で、『仏敵』の次に詳しく求道から獲信のプロセスを記してある一遍であり、『華光出佛』という本に収録されている体験記である。筆者が注目したいことは、『仏敵』における伊藤の獲信体験が劇的である一方、『悟痰録』の著者・尾上實(一九一六~一九四五)の体験は非常に緩やかだということである。このことより、伊藤はその指導において、必ずしも明確な体験を必須条件としていたわけではないことが窺える。また一人の人物に対して伊藤がどのように指導していったかが最も詳細に記録してあるのが、この書である。善知識としての伊藤の態度が描写された、注目に値する本である。
よって『仏敵』と同様、伊藤の発言によって尾上にどのような変化が現れていくか、検証していくため長い引用となるが分析していく。
尾上の獲信への過程を確認すると、以下のような流れが見える。
1、結核を患い、国嶋病院に入院。『仏敵』を読み、仏法を求める気持ちになる。
2、退院後、大学を再受験するが不合格となる。失意のうちに伊藤の布教に同行、聴聞する。求道が簡単なものではないことを痛感する。
3、病院の友人が獲信したことを知り驚愕する。国嶋病院を訪れると、そこには獲信の喜びを次々に語る人々がおり、『仏敵』の再現を見る。
4、『仏敵』に登場した妙好人・奥村みとを訪ねる。
5、伊藤を訪ねて當専寺へ赴く。
6、病院での聞法後、求道を止める決心をする
7、仏法を聞いても何も感じない自己を発見する
8、伊藤に自分の思いを打ち明ける決心をし、再び當専寺を訪ねる
9、伊藤の手紙をきっかけに、心境が変わり始める
以下、それぞれ説明する。
1、結核を患い、国嶋病院に入院。『仏敵』を読み、仏法を求める気持ちになる
著者の尾上實(一九一八~一九四五)は、伊藤が国嶋病院で療養のために布教をしていた時期に、病院で出会った結核患者である。芦屋の裕福な家庭に生まれた。四歳の時に母親と死に別れ、その事を終生悲しんでいた。兵庫県立第一神戸中学校を卒業し、大阪商大に入学。その後一九三七年十九歳、本科在籍中に結核を発病する。翌年より国嶋病院で療養生活を送る。その時に伊藤と出会い求道を始める。一時は病状が全快し退院、伊藤の誘いで良能社の手伝いをする。二年ほどの求道の後、獲信。その後に大阪大学医学部へ入学するが、結核が再発。遺言となった『最後の手紙』を残し、二十七歳の若さで死去する〈5〉。
『悟痰録』という題名は、胸を病む者の多くが悩まされる痰から名付けられている。尾上は自分を苦しめた病と痰を、偉大なる善知識であり善行方便であったと記す。
尾上は自分の家の宗旨さえ知らない青年であった。病に出会うことがなければ、真宗の教えに出会うことがなかったのである。尾上は幼少より順調に成長し進学した優秀な学生であった。結核を患った事は、人生において初めての大きな躓きだったのである。
尾上は一九三七年に発病し、翌一九三八年に薬師山にある国嶋病院へ入院する。入院当初、尾上は部屋に放送で流れてくる宗教法話が憂鬱であったという。しばらくしてからも、処世や療養上に示唆の多い禅宗の話は歓迎しても、真宗の法話は訳が分からず歓迎できなかった〈6〉。
尾上が初めて伊藤と出会った時、伊藤は挨拶もせずに尾上の部屋の床の間に座り、タバコを吸い続けた。怪漢の様相を呈する伊藤に、尾上は驚きとともに強い印象を受けた。そして尾上は後日、伊藤の著書『仏敵』を読み、求道を始めた。
丁度その頃、近隣の病室の人から始めて「佛敵」を借りて讀んだ私は異様な感銘を覺えた。從來私は、宗教とは道徳のイトコだ位にしか考えていなかつたし、折々の法話もその範囲を多く出ないようだつた。だが此所には全く別の世界が示されている。果たしてこんな世界が本當にあるのだろうか?漠然とし乍ら私の心に宗教を求める氣持が萠し始めた。 (『華光出佛』五頁)
尾上は『仏敵』を読んだことで心境が変わり、求道を始めた。その他にも、一九三九年(昭和十四)に入って症状が悪化し四月から大学を退学しなければならなかったこと、同じ病院の入院患者が次々に亡くなったことによる失意も、仏法への思いを深めた。人生が思うように行かないこと、病気のために死が迫ってくる無常観が尾上をそうさせた。法話を熱心に聴くようになったり、読経することを楽しみに思うようになってきた。御伽噺にしか思えなかった阿弥陀仏の苦労も、実感を伴ってきた〈7〉。
再び伊藤と出会ったときに、尾上は自己の心境の変わり振りを語る。伊藤は静かに聞いた後、すぐに尾上のために法話を始めるのであった。
十月の末頃伊藤先生が來られた時に、私はこんな法悦のあつた事を話して更に色々求道上の質問をした。夕暮のひと時を先生は静かに話して下さつた。君もそうして自然に進んで行くのかも知れぬな、とに角自分の罪悪を深く内観するのが第一だ、とそんな事を言つて事務所の方に歸つて行かれたが、間もなくマイクにスヰツチが入つたと思うと、久しく中絶していた正信偈講話を始められた。私は自分一人の爲に聞かせて下さる法話だと直感して一語も洩さず聞き入つた。
話は釋尊と提婆の事から始つた。三度まで釋尊を害せんとした提婆を我々は悪逆非道という。併し我々も嫉妬、憎悪という恐ろしい心を持つ以上、提婆と同じ立場に立てば彼と同じ事をやり兼ねまい。我々は理性というもので何とか抑えているからよいようなものゝ、もし思つた事を悉く口に動作に表したとしたら、果してどの面下げて世間を歩ける自分であるかという事を考えねばいけない―ヒシゝゝと胸にこたえる法話だつた。
こんな法悦は併し豫期した事ながら二、三回あつたきりで消えてしまつたが、求道心はいよゝゝ深くなり、折にふれ事に當る度に法の事を思うようになつた。入院料のつり銭が十圓多かつたので事務所で返しに行つてもらつた事があるが、良い事をした―とふと思つた後で静かに反省してみた。果して良い事だつたろうか。否當り前の事に過ぎない。それを良い事をしたと思う時、自分は驕慢という一つの罪を犯しているのだ。いやそれより、折角返してやつたのに禮に位來てもよささうなものだと思ふ心が果して起らなかつたか。 (『華光出佛』九頁)
尾上は自分行動のひとつひとつを内省し、仏法に照らし合わせて考えるようになってきた。尾上の看護をしていた山川という女性は、先に仏法を求めていた。その熱心な様子にも尾上は感化を受けていく。二人で共に求道する日々が続いた。乾布摩擦の時間などは、尾上が『仏敵』や佐々木月樵(一八七五~一九二六。大谷派僧侶)の『親鸞聖人傳』を読んで聞かせたりした〈8〉。
一九四〇年(昭和十五)の二月、伊藤は求道に悩む山川を問いかける。
「結局あんた苦になつてるんか、どうや。」山川さんに問はれた言葉であつたが、此の一言は私の胸にドキンとこたえた。私は後生が苦になつてるだろうか?
「ハイ」と答えたい心があるが、それは表面の自分だ。飾つた私だ。本心は後生など問題にもしていないのでないか。自分が信仰を求めているのは、治病の手土産にする位の氣持ちなのだ。友達に學業に取り残された代償にするつもりかも知れない。それが飾らぬ本心だ。轉んでもたゞは起きぬという大阪商人の根性と隔る所はない。何と淺間しい心だろう。私は便所の蛆虫を思つた。一かど向上を求める如く上の方に這ひ上つて來ているが、いつか又もとの糞尿の中に沈んでいる。所謂汚穢を脱し切れぬ我が心だろうか。 (『華光出佛』十一頁)
尾上は、伊藤が山川に問うた言葉を、自分に向けられた言葉として深く受け止めている。後生のことを考えているとしても、本心では後生など問題にしていないのではないか、と内省する。表面的な部分では熱心に仏法を求めていても、本当に心の底から仏法を求めているだろうか? と考え出したのである。信心を求めているといっても、治病に取組んだ際の手土産が欲しいだけではないか、と汚い自分の本性を感じるのであった。
2、退院後、大学を再受験するが不合格となる。失意のうちに伊藤の布教に同行、聴聞する。求道が簡単なものではないことを痛感する。
五月になり、尾上は予想だにしなかった全快退院を迎えることとなる。しばらく良能社で働くこととなり、伊藤の供をしながら様々な社会勉強は出来たが、肝心の仏法からは遠のいてしまった。尾上は新しいスタートを夢見て一九四一年に医学部を受験するが、試験当日になって体調が悪化し不合格となる。このことを回想して尾上は、「併し―如來善巧の御手は夢を追つて飛び立とうとする私の裾をしつかり掴んでいたのだつた」と書いており〈9〉、大きな挫折すらも他力信心を得るための方便であったと受け止めていることが窺える。
そして不合格による失意の中、尾上は再び求道を始める。
3、病院の友人が獲信したことを知り驚愕する。国嶋病院を訪れると、そこには獲信の喜びを次々に語る人々がおり、『仏敵』の再現を見る。
共に求道していた山川から手紙を受け取り、国嶋病院に獲信者が多く出てきたことを知った尾上は、大変な衝撃を受ける。自分だけが他力信心が分からないという悩みとともに、尾上は病院を訪問する。病院の空気は一変しており、『仏敵』の世界の如く、患者や付添人らの求道熱は非常に高まっていた〈10〉。病院を後にした尾上は、信心について一人で考え込んだ。
歸り道には東本願寺に参詣して境内で暫く考えた。私達には主人の心と番頭の心とがある。番頭は常に表面に立つて萬事萬端切廻すが、いざお家の大事となると逃げてしまつて責任を持つのは主人公だ。だから表面の番頭の心で聞いても駄目で、奥底の主人の心が聞かねばならない―之は先生がよくされる話だが私にはそのたとへがよく分るような氣がする。
此の何日かの間にも頑な我が心が呪はしくなつて何度か男泣きに泣いた。むせび出る塩辛い涙は、何かしら淋しくも甘い慰めを感じさせる。併し番頭が泣こうが笑おうが、奥底の主人公は眉一つ動かしてくれない。感情で本心をごまかそうとしても駄目だ。こんな所に信心はない。 (『華光出佛』二八~二九頁)
主人と番頭という比喩は、伊藤が法話で頻繁に出した例え話である。どれほど真剣に聞法しているように見えても、表面的に聞いているだけでないか、本当に本心がどう聞いているのか、自分に問うてみなくてはいけないと伊藤は言う。例えて言えば、大きな構えの店では、お客が来ても、全て番頭が客をあしらう。主人は奥にどっしりと構え、普段は表に出て来ない。
それと同じように、仏法を聞いていても、上辺の心で聞くことを「番頭が聞く」と表現する。心の底には「主人」がいるという。後生の一大事だと言われて、口では「全くその通りですね」などと答えても、本心では大変なこととは思っていなかったりする。その本心を出してこなければ求道は進まない、と伊藤は言うのである。
4、『仏敵』に登場した妙好人・奥村みとを訪ねる。
尾上は『仏敵』にも登場した伊藤の善知識である奥村みとを訪ねていく。奥村は、野口道場の堀尾に導かれた人である〈11〉。そして尾上は奥村に、自分の不信を語る。
「おばさん、私は色々な人の體驗を聞いて地獄必定の落機に徹した時に信が廻向されるように考えているのですが、私はまだそういう落機が分りません。」
「落機は如來様に見せてもらふんです。あんたに分るこつちやない。如來さんの仕事までしようとするからいかん。それなら機法一體と違うて合體になる。あんたが如來さんの仕事をしたら如來さん上つたりや。」
「さうですか、私はとても御信心など戴けそうにないと思うのですが・・・・・・」と何氣なく泣言をいうと、
「そらあんた口先だけや」と電光石火の逆襲である。
「ほんまに戴けんというとこまで出とるんなら戴けとる筈や。戴こうにかゝつとるからそんな事を言ふねん。」
鮮やかに圖星をさゝれて私は寧ろ快感を覺えた。と同時におみとさんに對する信頼と親しみの情が一層加つて氣樂に話せ出した。 (『華光出佛』三二頁)
尾上は、自分は信心はとても戴けそうにない、と訴える。対する奥村は、そこまで本当に分かっていたら、既に信心を獲得しているはずである、と鋭く言い放つ。奥村は、自力が無効であることを心底から知れば、獲信出来るはずだというのである。自分の本心を見抜かれた尾上には、奥村に対する信頼と親しみの気持ちが生まれる。
奥村は、あまり焦って信心を頂こうとするのは止めるべきだと言う。しかし尾上は、焦っているのを止めれば、無宗教に戻ってしまい信心が頂けない気がするのであった〈12〉。
5、伊藤を訪ねて當専寺へ赴く。
後日尾上は、當専寺の伊藤を訪ねる。尾上は、奥村が「落機は如來様に見せてもらふ」と言ったことに対して困惑していた。それについて伊藤が答えていく。
無常を見、罪悪を見て行けば信に入れる―そうきめるのが自力心、私の言う佛敵なのです。此の自力心は、あんたは今度法を求め始めてから初めて出て來たように思って居られるだろうが、實は久遠劫來あんたを迷わせ續けて來たものです。 (『華光出佛』三七頁)
伊藤は求道を始めた人に、無常観―私が今にも死んでいく身であること、罪悪観―私が今までしてきたことを見るように、と勧める。しかし「無常を見なさい、罪悪を見なさい」と勧めると、求道者の中に「この方法論に沿って求道していけば獲信出来るはずだ」という心が出て来る。―それが自力心であり、仏敵であると伊藤は説明する。さらに伊藤は説明を続ける。
成程おみとさんの言うやうに本當の罪悪、本當の無常は他力によつて見せてもらうので、それが眞に分るのは信後です。だがある程度やはり無常と罪悪を見て行かぬと受け心が分つて來ぬのですね。考えずともよいと言うのはおみとさんは法の方からそう言われたのだが、自分ではやはりそれを都合よく解釋する。それにあんたが考えねばもとの無宗教にかえるというのは冷かな論理です。一種の虚無主義ですね。そういうのがやはりあんたに無常と罪悪とが十分に見られていない證據です。・・・・・・あんたが知ると知らぬとに拘らず無常は無常です。分つても分らなくても罪悪はあくまで罪悪です。信を求める手段にそれを見るのでない。」先生の言葉は静かな中にも熱を帯びて來た。 (『華光出佛』三七頁)
伊藤は、信心を得るために手段として罪悪や無常を見るのではない、と強調する。見ても見なくても、罪を犯しながら生きているのであり、無常の理で死んでいくのである。それを、見なかったら無宗教に戻ると考えるのは、それこそ罪悪と無常が見れていない証拠である、と伊藤は言う。
「大體後生の一大事という事はあんたには分らぬのです。分つていれば今時分まで迷つて來ている筈はありません。併し後生が一大事だという事は如來様が知つて居られるのです。關東大震災のような惨事でも一秒前まで誰も知らぬが、併し起るものは起りますでな。如來様は知つて居ればこそ後生は一大事と仰せられるのです。・・・・・・無常は思ひがけぬ、まさかと思つてる時にやつて來るぜ入る息は出る息を待たぬでなあ。」 (『華光出佛』三七~三八頁)
伊藤は「後生の一大事」ということは、凡夫の側では分からない、阿弥陀仏が知っているのであるという。伊藤は関東大震災を例に挙げ、尾上に無常について説き聞かせる。その後、自分の心を観察し続ける尾上は、「主人と番頭」の話について思うところを話した。
「その主人と番頭の話ですが、私は自分でその二つの心があるのがはつきり分るようです。先日も親戚の子が死んで火葬場へ骨上げに行つたのですが、自分もやがては此の様な白骨になるのだ、これでも分らぬかと一つの心は躍起になつてるのに、もう一つ奥にある心は平然としているのです。戴きたいゝゝゝゝと大和までも足を運ぶのは番頭の心で、肝腎の時にはまるでよそ見しているような主人公の心が出て來るように思うのです。」 (『華光出佛』三九頁)
尾上は、肝心の主人の心が仏法を聞こうとないことに困惑していることを告白した。それに対して伊藤は、もう一つの例え話を使って、第十八願の説明をする。
「大體長く聞いてる人は自己流の安心を握つているからいかんのですが、これから求めようとする人は自分の心で信心を作ろうとするんですな。人が入信した時泣いたのを見ると自分も泣けばよいと思う。所が人間は妙なもので何かの拍子に感情が激して泣く事がある、そこでわつと泣けばそれでよいと思う。とに角難しいものです。・・・・・・眞宗でも自分が信を取るという風に、いはゞ棚からボタ餅を得て食うように思うのは二十願の心です。二十願でも念佛が喜べるとか、或は念佛三昧に入つて光明を拜せるとか、かなり進んだやうな人も居るものですがそれではまだ駄目です。十八願は自分がボタ餅になつて棚から落ちて如來様に食はれるのです・・・・・・ (『華光出佛』三九~四〇頁)
伊藤は長く求道している人は、自分で信心を作ろうとするという。ここで、伊藤がよく説法で使った「棚からぼた餅」の比喩が出て来る。一般的に、棚からぼた餅とは、予想外の幸運を意味する。しかしここでは他力信心を、ぼた餅が落ちてくるように信心を待つのではなく、自分がぼた餅になって阿弥陀仏に食われるものだ、と例える。落ちてきたぼた餅を食うのは二十願であり、逆に自分がぼた餅のように落ちていくのが十八願である、と伊藤はいう。
続いて尾上は、求道を進めるためにも無常を感じたいと思い、顔が映らなければ三日以内に死ぬという噂の古井戸をのぞいた話をする〈13〉。結果は、間の抜けた自分の顔が映って阿呆らしいと感じただけであったと話す。
「そのあほらしいというのが寧ろ本當の心に近いんやないかなあ。山邊習學さんは求道中フヽンと笑ふ心が出るのに二年間惱んだという事を言つて居られますがね。」 (『華光出佛』四一頁)
伊藤は、あほらしい、というのが主人の心に近いのではないかと言い、山邊習學(一八八二~一九四四)の求道について話した。
伊藤との面談を終えた尾上は、次のような心境を記している。それは、話し方が親身で優しい奥村の示談を受けると、切望していた他力信心がすぐ目の前にあるような気にさせられること。一方、伊藤と話すと、信心が遠ざかったような気持ちになる、ということであるxiv。自己の計らいによって求道中に獲信が近く感じたり遠く感じたりする心情がよくあらわれている。
6、病院での聞法後、求道を止める決心をする
その後尾上は、再び病院を訪れて伊藤から示談を受けるが、獲信することが出来ない。意気消沈の余り、もう二度と聞法しない、と伊藤らに言い捨てたこともあった。求道を始めて二年半が過ぎていた。しかし「もう聞法しない」と宣言した先から、ここまで仏法に背を向ければ罪悪が分かるのではないか、という思いが頭をよぎった。とても求道を止められるものではない、と尾上は痛感する〈15〉。
そして「私一人が弥陀の本願から洩れていたとは知らなかつた」〈16〉と、尾上は悲痛な思いを抱える。再度、奥村を再び訪ねたりもするが、心に何も響いてはこなかった。尾上の京都の知人のうち、数人が獲信したという知らせを受取り、またある友人からも獲信を報告する手紙が届いた。尾上は、「俺だけはなんと不細工に出来た男だろう」と我が身を嘲笑する〈17〉。
7、仏法を聞いても何も感じない自己を発見する
何度伊藤に示談を受けても獲信出来ない尾上は、仏法に関する何事に対しても驚きが立たず、心が冷え固まったように感じる。そんなある日、友人から、興正寺で同行の集まりがあるから来るように誘われる〈18〉。獲信者の多い中では肩身が狭く、思ったように語ることも出来ない。そこで伊藤は釈尊の月愛三味の説法により阿闍世大王が獲信する場面を説教で話す。尾上はその法話が身に沁みたように感じるが、集りが終わる前に引き上げてしまう。なぜ皆の前に出て行かない? それでも求道する人間か、と我が身を責める。
それ後数日間、尾上は微かな法悦を感じた。「阿闍世とは衆生の名なり」という伊藤の言葉が心に響く。自分より先に獲信する同行を、自暴自棄になって恨んだ自己を浅ましく思う。皆の獲信が自分の励みとなっていたし、親身になり心配してくれている友人達なのである。それであれば、親である阿弥陀仏の心中は如何であろうか、と考える。自らを、捻くれていたのだと反省する。分からねば分からぬ程、余計に求めねばならない尊い法ではないか、と考え直す。今までの軽々しい態度を止め、素直に仏法を求めよう。この微かな法悦が消えた以降も、尾上の気持ちは落ち着いていた〈19〉。
8、伊藤に自分の思いを打ち明ける決心をし、再び當専寺を訪ねる
尾上は蓮如の「信不信ともに物を言へ」という言葉を思い出し、自分は今まで信心を獲ようとするあまり、伊藤にさえ自分の気持ちを十分に話してこなかったのではないか、と気付く。再び伊藤の寺を訪れ、自力心に手こずって求道が行き詰っている自己の現状を語る〈20〉。対する伊藤は、他人の獲信を気にし過ぎないように、と助言する。
「どうも君は色々の人の體驗を聞いて、あのようにならねばならぬと一つの型をきめて、それに自分の心をあてはめて行こうとするのでそこに無理が出來て來るのだと思う。法はその人の根機に應じて出來ているので、獲信するにも蓮の花のように音を立てゝ開く者もあれば、菊の花のようにスーツと開く人もありますからな。」 (『華光出佛』六四頁)
伊藤は、求道者は他人の獲信体験を聞くと、同様の体験をせねばならぬと思い勝ちである、という。しかし、人それぞれ個性が違うように、獲信体験の様相もそれぞれ異なるのだと伊藤は説明する。それを聞いた尾上が、改めて自己の求道態度を振り返った。
「さうですかね。成程今まで人の真似をしようとして随分無理していたように思います。だから心の浮き沈みが大きく、一度つまづくとなかゝゝ立ち上がれぬようになつたりしたものでせう。
七月に病院に聞きに行つた時、鬼になつて法を謗るんだと猛烈な決心をしたのですが、あとから何故あんな氣を起したのだろうとよく考えてみると、確におみとさんから聞いた話がもとなのです。―おみとさんが同村の夫婦者に法を説いていたが、後から求め始めた嫁さんの方が早く喜んで、ずつと以前から苦しんで居た主人が取り残されてしまつた。ある日の事その嫁さんが、大變だ、すぐ來てくれと飛んで來たので何かと問うと、主人が、嫁ばかり喜ばして此の俺を救つてくれぬような佛はこうしてやるんだと、佛壇を叩きこわして火をつけかけていると言う。これは良い所え出てくれはつたと思うてわしが走つて行つて説いてやつたらその場で獲信した―というこういう話なのです。
勿論その時は全然意識してなかつたのですが、やはりこういう事が潛在意識になつていて豫定觀念を働かしていたのですね。聞けば聞いた事が邪魔になると言われますが、しみゞゝさうだと思います」 (『華光出佛』六四~六五頁)
伊藤は尾上に、様々な人の獲信体験談を聞いたために、こうなれば獲信できるはずだと思い過ぎではないか? と伝える。そして伊藤は、他人の体験の型に自分を当てはめる必要は無い、と諭す。尾上は自分自身こそ、他人の獲信の型に自分の心を当てはめようと思い、苦しんできたことを思うのであった。
その後は雑談に移って碁を打ち、尾上は席を立つ。帰り道、遠くの景色に伊藤の自坊を見た尾上は、法を求める身にしてくれた伊藤に対して合掌するのであった〈21〉。
9、伊藤の手紙をきっかけに、心境が変わり始める
後日尾上は、伊藤よりハガキを受け取る。尾上を見送った後すぐに書かれたものらしく、求道者に対する慈愛に満ちていた。
南無阿弥陀仏、自力他力の分別よ去れ。久遠の親だ、獲信未信の妄念よ消えよ。大胆に進もう。汝を救わずんば正覺を取らじと誓うた彌陀だ。片手はぢいても三千大千世界が動揺する親だ。 無明長夜の燈炬なり 智眼暗しと悲しむな 生死大海の船筏なり 罪障重しと歎かざれ!
燈臺の光は輝いている。小舟を惹く縄は張られている。岸は近い。波浪はよし高く天を打とうとも― (『華光出佛』七〇頁)
尾上は涙ぐみながらハガキを読み、伊藤の励ましに心打たれるのであった。
その数日後、夜中に仏前で端座して仏法について考え続けていた尾上は、以前とは違う心境にあった。獲信できず仏法が分からないのは今までと同じだが、だからといって失望や落胆を感じない。むしろ、深夜一人で仏法を求める気持が起るような自分であっただろうか、という感慨を抱くのであった〈22〉。
この翌日、所用で外に出かけた尾上の口から無意識に念仏が出る。
翌日午前中に私は所用で近くの銀行まで出かけた。椅子に腰を下して順番を待つ暫くの間、静かに佛法の事を思つてフツゝゝと法悦の涌いて來るのを覺える。思えば信も如來も念佛も語り得る資格の何一つない自分だ。こゝまで導かれ求道に志して幾多の知識に會う、何たる大きなお導きだろう。そうして何たる不思議の因縁だろう。求道に惱むと言つていたが、あゝ、考えてみると惱まして頂く事の何んと大なるお慈悲である事よ。
あれこれと考えている中に窓口から名を呼ばれた。ハツと立上つて聲のした方に歩み始めた途端、二聲三聲、私の口から念佛がとび出した。思わず知らずの事である。人ごみの中だ。一瞬驚いて左右を見廻した私は、あわててテレ隠しの鼻歌でごまかした。 (『華光出佛』七一~七二頁)
尾上は我が身を内省し、信も如来も念仏も何一つ語る資格の無い自分であった、と振り返る。自力が無効であることを知ったのである。求道に悩んでいたが、仏法について何一つ語る資格のない自分が悩ませてもらえること自体、仏の慈悲であり有難いことであったと思うのである。銀行の窓口から名前を呼ばれ、歩き出した途端に念仏が出て来たのであった。尾上は念仏ではお浄土に参れないと聞いてから、普段は念仏をしたことが無いのであった。称名する習慣が無いにも関わらず、口から無意識に念仏が出たのである。
尾上は、こんなことで喜んでいてはいけないと自分を戒めるが、気持ちは何故か晴れ晴れとしている。この念仏に喜びを感じたのだが、こんな所で聞法の腰を落ち着けてもいけないと思い直し、顔を合わせた同行達にも黙っていた。こういった類の法悦が収まると再び非常な寂しい気分に陥るものだと尾上は予測したが、彼の求道心には変化が起こっていた。以前のように激しくなったり消えたりするのではなく、よく起った炭火のように静かに燃えているのであった〈23〉。
尾上のこの場面においては、『正信偈』の「獲信見敬大慶喜」からイメージされるような大きな変化ではないが、明らかな変わり目が現れているようにみえる。
その約二週間後の十一月九日、尾上は興正寺本山にて伊藤と会うことになる。
併しいつものように是が非でも信心を頂くんだというような強引な氣持ではなく、たゞもうつまらぬ計らいは去つて静かに素直に如來様のお喚び聲を聞かせて頂くのだ、たゞ聞かせて頂けばよい、という氣持だつた。「君がとやかく計らう心が少しでも間に合うなら他力の御本願とは申しません」と先生がいつか言われた言葉が何となく思い起こされるのである。 (『華光出佛』七三頁)
自分で計らおうという気持ち、分かりたい分かりたいという焦りが消滅していることが見て取れる。自力心が取り払われている、といえるであろう。
そして尾上が最近の心境、特に銀行で無意識に出た念仏について話していると、伊藤が言う。
「やっぱりあんたは抜けてるなあ。」 (『華光出佛』七五頁)
尾上は大いに狼狽し、このような些細な出来事で獲信したと思われたら大変だと思い、喜びが消えた後の気持ちも語る〈24〉。すると伊藤は次のように答える。
「それは會者定離の淋しさです。わしも獲信後實に淋しい氣持の時があつて植島藤太郎さんに問うたら、それは會者定離の淋しさでそんなものは法とは關係無いと言はれた。今でもそんな事がよくあります。人生は究極淋しいもんですからなあ。」 (『華光出佛』七五頁)
伊藤は『善き知識を求めて』において、植島藤太郎と次のようなやり取りをしている。
「私は時々寂しくなるのです」 「寂しくなる……そりや誰しも人間の生活は寂しいものです、さう愉快な日なんかは續くものでありません。私達が法義を喜ぶのは、たゞ一念のところを喜ばせて戴く丈なのです」 (『善き知識を求めて』七〇頁)
そして伊藤は、尾上に信楽開発とは何かを語る。
信樂開發といつても何も特別の事じやない、自力の手の間に合わぬ事が分れば良いのですからな。 (『華光出佛』七七頁)
このようにして、尾上は廻心体験をしたのである。しかし、他の同行達の獲信体験に比べて緩やかな体験をした尾上には、このような体験が獲信と言えるのであろうか、という不審があった。それに対して、伊藤は次のような手紙を送る。
君は求道に永い間悶えたから、今後も時に疑心が出るかも知れない。併しそれは自力ではない、自力の餘臭である。本願の船に乗るのは、他の人々は易々と乗つて甲板の上から移る景色を眺めているのに、君は乗り損つて波にもまれたのだから、今やつと甲板に上つても、波にもまれた時の夢に戰くかも知れない。
併し君が何と思わうとも本願の船は生死の波を蹴つて堂々と西へ進んで行く。君の心に出る念佛は君の念佛にあらず、船が進む機關の音だ。信火行煙、此の信も正覺の一念に還り、此の行も正覺の一念に還る。偉いこつちやぜ。
僕も入信當時は自己感情に捉われたが、此頃はもう荒つぽく信じている。片手をはぢいても三千大千世界が一時に震動する親だ。俺を救わぬようなケチなオヤジではない。 (『華光出佛』八四頁)
伊藤は、求道に長く苦労した人は、獲信した後に悩みが出ることがあるという。植島やゑもそうであったし、伊藤自身も『善き知識を求めて』にあるように、獲信後の悩みを経験した。ここで「自力の餘臭」という言葉が出てくる。長く求道した人は、獲信に対して多くのイメージを持つことがある。しかし、個々に現れてくる獲信体験は、決してイメージ通りではない。それによって求道者は、戸惑いを覚える。これで他力信心を得たと言えるのだろうか、という思いが残り、苦悩する場合があるということである。
しかし後生に対する不信が無いのであれば、様々な思いが出てきても、それは捨てておけと伊藤は言う。阿弥陀仏の本願は衆生の計らいを超えた遥かに偉大なものであり、行者を西へ西へとつれていくのである。伊藤らしいユーモアを含めて、尾上の問いに答えている文章である。
生れた本人は生れた事を知らぬが皆が歡喜する。我等も信を戴いた時を知らぬが、あとで信が成長するに隨つて佛の御苦勞が分る。思えば多生にも遇ひ難い尊い法だ。彌陀如何なる彌陀なればこそ此の深重の誓願を起し、知識如何なる知識なればこそ我等に善巧方便を以て説き給うものぞ。誠に勸め恒沙の勸めなるが故に信また恒沙の信なり。四方八方に頭の上らぬ私であると知らして貰う。 (『華光出佛』八五頁)
生まれた時のことは本人には分からない―この言葉からも、伊藤が一念覚知に拘っていたわけではないことが知れる。もし伊藤が一念覚知に拘っていたならば、「我等も信を戴いた時を知らぬ」とは言わないであろう。そして伊藤は、信心は成長するという。その意味は、他力信心を頂いた時は、本人は体験の渦中にあり、他力信心の本当の価値や阿弥陀仏の御苦労は分からない。しかし、獲信後に聴聞を続けることによって、頂いた信心の意味を深く知ることが出来る。これに際限は無く、聴聞すればするほど他力信心についての理解が深まる。そのことを指して伊藤は「信は成長する」と言っているのだと考えられる。
以上、尾上の求道体験記を検証した。獲信の体験は必ずしも劇的である必要は無いと言える。体験の表面的な質よりも、それを通じて後生に対する不安が消滅したか否か、真に他力信心を得たかどうかということが、最も重要な点である。
なお、尾上はその後、しばらくは再び医学の道を志したが、結核が再発して二十七の若さで生涯を閉じた。亡くなる三ヶ月前から伊藤に五通の手紙を送っている。それは『最後の手紙』という手記として、『死を凝視して』に収録されている。他力信心の行者が亡くなる折に、どういった心境を持つかを表した意義の深い遺書である。
先生、尊い法を教えていただき、ありがとうございました。おかげで笑って死ねます。死亡診断書も頼んだし、棺おけの用材の交渉もできましたし、準備もとゝのっています。側近者と、死ぬ日の予想をしたり、葬式の段取りをしたりして談笑する。片山さんが瀕死者のそばにいる気がしないといっていました。仏法がウソだったといわれても、出てくる念仏が承知しません。私はこの法と、二十七年の生涯を取りかえても、ちょっとも惜しくないです。 (『死を凝視して』一四一頁)
尾上は、若くして死を迎えるにも関わらず、自己の死を受け入れることが出来ている。さらに、例え仏法が偽りだと言われても、尾上自身から出る念仏が真実を教えてくれる、という。そして念仏と出会えたことを心から喜び、短い生涯であったが、その人生と他力信心を取り替えても全く惜しくないと明言するのである。ここに、獲信者の生死を越えて喜んでいける生き方の模範がある、と筆者は考える。