第四章 第一節 第三項 『死を凝視して』にみられる宗教的経験
『死を凝視して』は第二次世界大戦が始まってから終戦までの間に、伊藤が関わった求道者達の手記である。本書に出てくる求道者の殆どは結核患者であり、死期を目の前にしていた。如何に求道者らが、死と向かい合いながら後生の一大事を解決したかが述べてある。
この本を編纂した目的を、伊藤はこのように述べる。
本書は、日本の大東亜戦争が起こる前から、終戦までのあいだに、私の周囲に起こった信心群像の手記である。京都の国嶋病院を中心に法話した時代のもので、筆者には病床の患者が多く、すでに他界した方もあることは、本文に示すとおりである。 (『死を凝視して』一四五頁)
病院から生まれた信仰運動なので、これを全国の療養する患者に―日本では百五十万人からの患者があり、年々十万人が死亡し、政府は二百億円からの救済費を投じている―この信を知らせたいが、彼らは現世利益の新興宗教の甘言にだまされて横道を走っているから、われわれの言に耳を借そうとしないのである。しかし、何とかしたいの一念から、この本を出版することにした。 (『死を凝視して』一四五頁)
伊藤は多くの結核患者と関わり、彼等の死を見届け続けた。その中で、結核患者達のことを親身に考えていた。政府からも二百億円の救済金が出ているのに、患者達が現世利益の宗教に騙されていることに居た堪れない気持ちでいた。『死を凝視して』は出版費用に苦慮したが、赤字覚悟で出版している。その資金は、華光会代表の増井悟朗の親戚が経営する増美屋が援助をした〈25〉。
前章で示したように、伊藤は国嶋病院において結核患者達に対して信仰活動を行った。それは、現代におけるビハーラ活動を思わせるものではあるが、大きく異なる点がある。現在のビハーラ活動は、死を迎える患者と家族が安らかに死の苦しみを乗り越えていけるように、臨床的に援助していくものである。そのために、ビハーラ活動をする人達はカウンセリング的な知識を身に付け、患者や家族の話を聞き、気持ちに寄り添うことを心掛ける。後生の一大事を最重要視して布教していくわけではない。
一方、伊藤の場合は、死を目の前にする患者に後生の一大事を説く。いうなれば、これから死にゆく人に対して、死を迎えても決して良い所には行けないこと、死ねば地獄一定であるということを告げるのである。死ぬまでに阿弥陀仏の本願を聞き開き、信心を獲るべきである、と宣告するのである。これは現代の常識から考えれば残酷なことであり、安易に実行出来ることではなかろう。患者たちはそのことを如何に受け止め、病床で求道することができたのか? 『死を凝視して』は十七人の短い手記、手紙を集めたものである。そのうちの幾つかを取り上げ、果して患者達は病床にありながら、後生の一大事が目前に控えているという仏説をどう受け止めたのか、検証したい。
一、『枯葉の最後』
『死を凝視して』の最初に登場するのは、ある会社社長の子息である。彼は結核を患っていたが、信心獲得した後、しばらく華光会の集いで熱心に聞法していた。そして、ある日失踪し、後に白骨死体で発見された青年であるため、『枯葉の最後』という題名がつけられた。
高山君の自殺する原因については、多少説明する必要がある。日支戦争の始まるころから、私は京都洛北の国島病院に出入りして、療養患者に仏教法話をして精神指導していた。全国から集まる二百名近い結核患者に仏教信仰を説くことは、かなり骨が折れたが、無宗教の青年男女を相手に説くことは、処女地帯を開拓して行くような面白さがあった。最初は釈尊の人格物語や祖師たちの信仰を説いて、浄土教の念仏法に及ぼすまでに二三年の歳月を要したが、青年の求道熱はだんだんと高まって、この病院は求道と療道を一如にした点では、全国でも評判が高くなった。 (『死を凝視して』三頁)
ここにおいて、伊藤がどのように国嶋病院で布教を始めたかが窺える。二百名近い患者達に、最初は釋尊の人格物語や祖師たちの信仰を説き、念仏の教えを説くまでには、二、三年の月日を要しているのである。しかし功が実り、青年の求道熱は高まり全国でも評判が高くなったのである。
ところが戦争が悪化して、この国島病院は殺風景な海軍病院に占領されて、私たちはやむなく退散した。けれども、全国に散在した求道者は、ぼくのところへ信仰の質問書を寄せるので、いちいち返事を書く手間を避けるために、謄写版刷りの小冊子を発刊して、これを『華光』誌と命名した。『華光』誌のほかに、ぼくの青年時代の求道物語を記した『仏敵』という本を指導書として、一種の文書伝道を始めることにした。 (『死を凝視して』三頁)
しかし、国嶋病院が海軍病院に占領され、仕方なく伊藤たちは出ていった。このことがきっかけとなり、全国に広がった求道者たちの質問に答えるために信仰雑誌『華光』の発行を始めた。一九四一年、太平洋戦争が始まった年に創刊している。『華光』の他、『仏敵』を指導書として文書伝道を始めたのである。
高山君は、このわずかな求道者の一人であった。東京方面の療養所にいた方であるが、誰かに聞いて、われわれの会員に加わったのである。文書伝道だけでは、肝心な点になると理解も難しいので、京阪神の者だけが、月々京都の興正寺本山に集って法話会を開くことにした。ぼくは本山教学部を指導していたので、僧侶たちの講習や試験に上京する機会をとらえて、この青年たちと気楽な法話会を開いた。外では戦争の猛火が拡大して、日本は、刻一刻、破滅の状態に転落していた。 (『死を凝視して』三~四頁)
この文章から、伊藤が興正寺の教学部を指導し講習や試験を行っていたことが分かる。また京阪神地方の華光誌を読んでいる求道者を集め、法話会を開いていたようである。太平洋戦争で日本の状況が悪化している中で、この法話会は始まったのである。
昭和十六年の晩秋であろうか、本山の報恩講に出勤していると、境内一面の黄金色の銀杏葉を踏んで、二十六七歳の青年がぼくを訪ねてきた。京都府下から電車で来たが、これだけの運動をすると、翌日は血痰の量が増すという慢性の結核病人だった。雑誌や著書を通じて求道している話をこまごまと聞いて、真宗信心の要点を示し、「明日はぼくも暇だから、遊びに来たまえ」と言って帰らせた。翌日、婦人会館の広間でぼくと対座すると、彼はポロポロと男泣きに泣いた。 (『死を凝視して』四頁)
高山は慢性の結核患者で、電車で外出するだけで具合を悪くするにも関わらず、わざわざ伊藤を訪ねてきたのである。彼は伊藤の雑誌や著書を通じてすでに求道を開始していた。彼は泣きながら自己の心境を話した。
「先生、ぼくは仏法の信もわかりませんが、まだ一つ、大きな心配があります」
「それは何か、差し支えなくば聞かしてもらおう」
「この結核という病気のことです。青春時代に楽しい思い出が一日もなく、父母にも心配をかけておりますが、この病気は治りましょうか」
「ぼくの素人判断では、君のような型の人は、多くは死んでいく」 と私は思いきって断言した。
「主治医の加療を絶えず受けて、幾年も療養してもう大丈夫という人でも、余後の健康を誤ると急死する。たとえ治ったにしても、病と寿命は別物だ。五十年の寿命を百年にできる医者は一人もいない。ことにこんな戦時中には、若い者の命は保証されぬ。いわんや数年間も治療して回復せず、主治医もなしに一人ブラブラして神経をとがらせている君は、 矢のように死の淵へ落ちていくではないか」 (『死を凝視して』四~五頁)
高山は自分の症状を話し、楽しい思い出一つ無く父母にも心配をかけているが、病気は治るであろうか、と尋ねる。伊藤はそれに対して、同情的な言葉で誤魔化すのではなく、これまで見てきた患者例からして高山の死期が近いことを告げる。何故伊藤は、このような残酷な断言が出来るのであろうか。その理由として推察できることは、伊藤は高山が求道していることを知っている点である。彼の求道を押し進めるためにも、後生の一大事が近づいていることを敢えて断言しているのである。
「ぼくはそのことで、朝から泣けてしょうがありません。この病気で死ねば、死んで行く先がわかりません」
「それは仏説に照らせば、はっきりしている」
この時の話は、語気が荒かった。他の人と違って、この青年は数カ月前から求道している。グズグズと遠回わりの道を説く必要がなかった。
「絶えず両親に心配をかけて、父母に孝養していない。深信因果の仏教を疑うて、未来を否定している。この病身を養うためには、動物性たんぱく質が必要だとか何とかいって、スッポンの生血や魚鳥や肝油じゃと、今日まで山ほどの殺生をして来たことを反省しない。この生死の大海に驚いて、一日として懺悔念仏した経験もない。死ぬことも確定的な事実ならば、死んで黒暗地獄へ落ちることも自明の道理だ」 (『死を凝視して』五~六頁)
伊藤は、高山に対する言葉は荒々しかったという。高山はすでに求道を始めている為、直接的な言葉で話しても大丈夫であることを見抜いているのである。闘病ばかりで楽しい思いも無かった哀れな高山に対して、伊藤は厳しく無常・罪悪・因果を説いた。両親に孝養していないこと、病気のために多くの殺生を犯していること、一度足りとも懺悔念仏したことも無いこと。死ぬ日が来ることは確実であるし、その後地獄に落ちることも明らかだというのである。
それから『往生要集』に現われた八大地獄の業相を、逐一説明するのを黙って聞いていたが、焦熱地獄の話に移った時に、宿善の時が到来したのか、静かに畳のうえに平伏して 落涙千行であった。
しばらくして頭をあげると、会館に奉安してある仏前にしみじみ礼拝して、「先生、この仏様はぼくに向かって笑いかけておられます」といった。 (『死を凝視して』六頁)
それから伊藤が八大地獄の話を順を追って話していると、宿善が到来したと見え、高山に廻心の体験が起こった。畳に平伏して激しく泣いた高山は、その後、仏壇の阿弥陀仏が微笑んでいると言って笑う。
そうしてソワソワしながらどこかへ出ていったが、後で聞けば、自宅へ電報を打ったそうである。自宅といっても、三里と離れていない奈良電車の寺田町だが―「シンジンモロウタ コンヤハテラニトマリマス」というのである。両親はこの電文の判読に頭を悩ませた。めったに外泊したことのない内気な息子が、寺に泊まることだけはわかるが、「シンジンモロウタ」の意味がわからぬので、いろいろと取り越し苦労をした。
その晩は、ぼくと一しょに本山に泊って、報恩講の説教を聞いて帰ったが、翌日、父母から根堀り葉堀り尋ねられた時に「ただ真っ暗な中から光明がさしてまいりました。父さんや母さんに話してもわかりません」 といったそうである。 (『死を凝視して』六~七頁)
その後、高山は信心を頂いた嬉しさに、両親に電報を打ったのであった。高山はそれからも熱心に聞法した。しかし戦況が悪化し、彼のような病人でも軍隊の短期訓練に出なくてはならなかった。
高山は若くして亡くなったが、後生の一大事を解決して亡くなったことには、悔いが無かったであろう。伊藤の言葉は、一般的に見れば、死期が迫っている者に対して追い討ちをかけるような残酷な言葉かもしれない。しかし高山はそれを受け入れ、獲信することが出来た。儚く亡くなっていくだけの命が、仏果を得ることによって、誰よりも輝く人生へと転換したのである。
二、『信前信後の水際』
この文章は、求道上の疑問に対する返答という形で、『死を凝視して』に掲載されたものである〈26〉。
私の求道の道を概略のべますと、大正末期に陸軍士官学校を中途退学して、病床に親しむ身になったが、人はどしどし出世する。そのために世をのろい人をうらやみ、病気を悲しみ、さんざんに悩んだ後に、「ヨシ、おれは今後は人を相手にしない。西郷さんのように、天を相手にして暮らそう。独立独歩あるのみだ」と決心したのですが、それも一時の空元気でつかのまのこと。相手になってもらうはずの天とは何か、さっぱりわからない。 ことにぼくは、長年の病気で親類も誰も相手にしてくれない。やはりさみしい。何のために人間はこの世に生れてきたのかと考えている間に、仏様のことが浮かんだのです。そうだ。天でなくて仏様だ。この仏様を研究しょうと思い立ったのが求道の初めでした。 (『死を凝視して』二六頁)
著者の淵上見竜は、陸軍士官学校に通っていたが、結核を患い、国嶋病院に入院した。同級生は次々に出世する。そのため淵上は世を呪い人を羨み、自分の病気に悲嘆した。長い闘病生活で親戚も相手にしてくれない。寂しさを感じ続けるうちに、何の為に生まれたのかを考え、仏法を求めるようになった。
理論でなく仏様の慈悲です。とても仏の慈悲は深いように書いてある。自分も衆生の一人とすれば、仏の大慈悲に包まれているに相違ない。ところが、こゝで起こった疑問は、
「そんなに仏様が慈悲深いのならば、長年苦しんでいる私の病気を何故に治してくださらぬのだ。病気さえ治してくだされば、私の悩みは根本から救われるのだ。その病気さえ治すことのできぬ、世間の医者より劣ったやつが、口先だけ慈悲深いと、いくらいってもうそだ。全く釈迦の宣伝広告にだまされたのだ。要するに仏教というものは、インドの空想好きな民族が生み出したものだ。僧侶は職業柄、それを宣伝するのはやむをえないが、われわれ俗人は、誇大妄想の話ばかり聞いていても、めし一杯を盛ってくれる者もなければ、薬一服買う銭ももうからぬ。経典は小説である。ことに大乗経典は非仏説である」
・・・・・・というような仏教に対する不平不満が高まって、折から病院に出入りしておられた伊藤先生を相手にしてけんかを始めたのです。 (『死を凝視して』二六~二七頁)
淵上は仏法を求めるようにはなったが、仏が慈悲深いということに対して、不信を感じたのであった。仏が慈悲深いのであるならば、なぜ自分の病を治してくれないのであろうか? 病気さえ治れば自分の悩みは根本から解決されるのだ、と彼は感じる。釋尊を恨み、僧を恨み、大乗仏教は非仏説であると不平不満を並べ、伊藤と喧嘩をした。
けんかの話をすると長くなりますから止めますが、根本仏教の鏡に照らしてみて、私の求道態度が根本から誤っていたことを知りました。それのみでなく、無いとばかり思うていた地獄へ落ちねばならぬという結論に達した。一方では、四六時中、頭から仏様のことが忘れられない。「その仏を捨てよ捨てよ」と言われるが、捨てよといわれると余計につかみたくなる。
それからもう何が何やら無茶苦茶だ。こんなことで悩んでいては、肝心の療養にもじゃまになる。院長と相談して、一時は枕頭の仏教書はもちろん、先生の『仏敵』も室の隅へ投げとばして、無心の状態に帰ろうとしたが、タ闇が迫るころはまた後生がこわくなって、夜中にこっそり起きて信仰書を読んでみる。翌朝に心境をひれきして、先生に尋ねると「そんな念仏は雑行雑修やからいけない」と捨てられる。くそ面白くもない坊主に出会ったものだと、つくづく後悔しましたね。 (『死を凝視して』二七~二八頁)
しかし根本仏教に照らし合わせて、彼は自分が間違っていたことを知る。そして、無いと思っていた地獄に落ちていかねばならない、と悩むようになるのである。仏のことも忘れられない。捨てよ、といわれると余計に掴みたくなる。伊藤からも、切り捨てられるように自分の考えを否定され、面白くない。
エーイ、どうなろうともおれの勝手だ。地獄へ行くさ。無間地獄へ真っ逆さまに落ちていくよ。―そうですね。立てたり崩したりする若存若亡の信仰状態から、絶望期が二カ月も続きましたね。朝日に照らされて、今日も生きていたかと思うと、ヤレヤレと胸をなでおろす有様でした。 (『死を凝視して』二八頁)
淵上は、開き直ったかと思えば、再び後生が恐ろしくなるなど、悶絶する日々が二カ月続いた。
或る日の夕方、友人が送ってくれた『法悦』という雑誌を読んでいると、白井助教授の一文がピタリと私の目にふれた。 「その疑情、ハカライ、自力の心があるために、仏の声を聞くことのできぬ私を、如来様は哀れみたもうて、一念一刹那も休む間もなく、大悲の涙を垂れたもうのである」との一文に、ぼくは参ってしまったのです。この文章を通じて生きた如来様の説法をききました。さながら剣道の達人から一気に脳天をたゝかれて、ハッキリと降参しました。これでモウ充分です。ぐったりと疲れはてゝ涙も出ない有様でした。むりな病を治せとか、淋しい私を救えとか、地獄があれば見せよとか、早く信心を賜われとか、さんざんにだゞをこねて親泣かせをしていた私の自性に、気づかせてもらいました。私の求道は、結局、如来の無限の大悲で私の我慢心を破るための戦いでありました。 (『死を凝視して』二八~二九頁)
そのような淵上の苦しい思いは、阿弥陀仏の慈悲を説いた文章に触れたことで転回した。淵上は、「この文章を通じて生きた如来様の説法をききました」と表現している。散々に駄々を捏ねて親を泣かせていた自性に気付いたのである。
淵上は、病気さえ治れば自己の悩みは解決すると思っていたが、そうではなかった。根本的な生死の迷いが断たれることで、彼は病気を縁として、未来永劫の苦しみから救われたのである。
三、『信楽の一念』
新潟県の有明公園の中には、信楽園という仏教主義の結核寮養所があった。昭和二十年代当時、結核は不治の病で感染することから、家族、親戚にも見捨てられることがあった。朝晩に正信偈や阿弥陀経の声が響き、百人余りが入院していた信楽園では、毎月四、五人の若い患者が死んでいったという。極貧者の集まりであり、著者の山本勝之助自身も結核の症状に波があったが、この世に捨てられた人々の炊事や看護の世話をしていた。病院内に田中庸子という患者があり、彼女が信心獲得してから、田中を中心に求道を始めることとなった〈27〉。
山本の特徴は、田中が他の人に話している言葉を、我が事のように聞き、後生が身に迫って来て信心が開発されるところである。
田中は山本に対してではなく、主に看護士に向かって話をする。それを山本は、自分に向けられた言葉として聞くのであった。
「あなたは今、こちらの断崖から向こうの断崖へ張られた、一条の命の縄にすがって渡っているのです。その縄は、決して丈夫なものではありません。その両端はすり減らされて、今にも切れようとしているのです。ひとたび切れたら、永劫に浮かぶ瀬のない暗黒の火坑に、落ちて行くではありませんか、これが黒縄地獄です。あなたは今、その地獄にいるではありませんか」 と申されました。私は身ぶるいしながら、この話を聞きました。工場からこの信楽園へ来た。いずこも同じ秋のタ暮だが、何よりも恐ろしいのは、信も決定しないで死の淵に臨んでいる事実に変わりはない。夜通しそのことを考えましたが、「いや待て、自分はまだ死なぬ。自分の命の縄はまだ切れることはない」と思い返しました。 (『死を凝視して』八三頁)
山本は患者の世話をしていたが、自らも結核を病んでおり、明日の命も知れぬ身なのであった。山本にとって何より恐ろしかったのは、信心決定せずに死んでしまうことであった。
「あなたは、今晩救われなければ、一生涯求道してもだめです。こうして話をする間にも、 刻一刻と無常が迫っていることがわかりませんか。地獄へ落ちつゝあることがわかりませんか」と泣くように申されました。
その時、私の耳に何者かが「おまえの寿命は、今晩十時に切れる」とささやく者がありました。時計を見ると七時です。「サァ、しまった。あと三時間しか余裕がない」と私は真っ青になりました。こたつに伏して考える。体は小刻みにふるえ、田中女史の顔も見えなければ、Oさんの顔も見えない、真っ暗な中で、私の命の縄が切れる様子が、ありありと浮んでくる。今までは、理性の上で死を自覚し、感情の上でも命の縄が切れると考えるとたえられなかったが、すぐに元の縄の上に立ち直って「おれは死なない」と自分に言い聞かせたが、今はそうは行かない。ズンズンと切れて落ちていく。懸命に手をさしのべたがだめだ。 (『死を凝視して』八四~八五頁)
山本の耳に不可思議な声が聞こえ、あと三時間後に命が切れる、と宣告される。それまでは、自分はまだ死なない、と心を落着かせることが出来たが、もはやそれが不可能になってきた。普段は何とか死を遠ざけていたが、自分の命が何時切れるか分からないという無常の理が、身に応えてきたのである。
命があと三時間しか無いという思いは、山本を求道に邁進させた。
だが、到頭私の縄は切れて、暗い火坑へグングン落ちて行きます。目の前にはグラグラと煮えくり返える地獄の釜まで見えます。
「南無三、たいへんだ。もう観念しょう。しかし何とかして、あの地獄の釜の外へ落ちる工夫はないか」ととっさに思案したが、ついにだめ、「アッー、ウアァ、助けてくれ!」と言ったきり、釜の中へ落ち込んでしまいました。
獲信の時は不思議なものである。私の耳は、現に信楽園の一室で田中女史の話を聞いてるのに、私の業相は、果てしらぬ地獄の底に落ちていくのです。 (『死を凝視して』八五~八六頁)
不可思議な現象は続き、皆と同じ病室に居ながら、山本だけは地獄の釜が見えて下へ下へと落ちていく心持がするのであった。
その時、ほっとした気持ちで私は頭を持ち上げました。田中女史は、相変わらず一心に看護婦さんに説法しています。友人のHは、寝たまゝ不安そうに天井板をながめて考えています。
「これは変だ。今のは何だったのだろう」 と考えて頭を伏せました。―突差にまた地獄へ逆もどりです。
今度は、寝台のような大きなまな板の上に寝かされて、何物かに手足を押えつけられて、 ギラギラ光る青竜刀で、胸から腹へかけてグサリと切られました。「アッ!」と思わず手足をもがき、その場を逃げようとしますが、声も出ず、体も動きません。
その時、田中さんと看護婦の問答がありました。
「今、シトシトと降っている雨だれの音を、あなたは何と感じますか」
「何とも思いません」
・・・・・・何とも感じられないどころではない。私には、それが自分の腹を割られて、床の上にポタポタと落ちる血潮の音に聞こえます。 (『死を凝視して』八六頁)
田中は相変わらず看護婦に向かって説法している。しかし看護婦よりも山本の方が、我が事として聞けている。奇妙なことに、山本はまな板の上に乗せられて、大きな刃物で切られているかのような心持になっていた。雨だれの音も、血潮の音に聞こえるのであった。
すると今度は、私の足首をつかんで、グングンと引っぱりはじめたものがある。見ると、真っ赤な火に燃えた牛のような怪獣だ。そいつが、私の足を食いにきている。ネコがネズミをくわえて振り回わすように私の足を右にねじ左にねじて胴体から引き抜こうとしている。
「うあゝい、止めてくれ、もう二度と犬も豚も殺さぬから・・・うあゝい、止めてくれ!」と必死に叫びました。
昨年、私が友人と山中で野良犬を殺して、腹を割き血を流して手足の肉を取って、なべの中で煮て食った。そのまゝの姿が、逆に私の身に現われてきたのです。とにかく私はたまらぬので、夜具から抜け出して室の中をはいまわった。苦しさにうめきながらのたうちまわった。怪獣は、ますます私を追うてくる。足をくわえて振り回す。するとまた腹が太鼓のように張ってきました。私は気が狂うと思った。いや狂うていたのでしょう。最後の苦悶の声を絞り上げて「助けてくれ」と言って男泣きに泣きました。 (『死を凝視して』八六~八八頁)
山本は今まで殺生をしてきた報いが自分に降りかかっていることを強烈に感じた。以前自分が野犬を殺して食べたように、自分の身体が引き千切られる場面にいるのである。地獄行きの身を思い知らされ、悶絶する。
田中女史が、夜具から飛び出して十畳の室のすみからすみへ転げ回っている私の耳元で、叫んでくれました。 「そのまゝです。そのまゝです。阿弥陀様はそのまゝ来いと叫んでおられます」と言ってくれました。 (『死を凝視して』八八頁)
山本は我知らずいつの間にか、夜具を飛び出して畳の上を這いずり回っていた。ここで初めて、田中は山本に直接声を掛けるのである。
「何と言うか。このまゝであってたまるものか。何とか早く助けて下さい。私は苦しい。苦しい」 と言って泣きづめでした。―しばらくすると、火の燃えた怪獣もどこえやら消え失せ、太鼓腹もおさまって、地獄の中にいるという感じもなくなりました。そうして大海の底のような静かな空気が、私の狂える意識を静めました。 (『死を凝視して』八八頁)
このまま地獄に行くとあっては堪らない、と山本は思うが、次第に心が静まってきた。
その時に、田中女史が聖教を読まれる声がりん然と強く響いてきました。
「浄土真宗の行者は、まず本願のおこりを存知すべきなり。弘誓は四十八なれども第十八の願を本意とす。余の四十七は、この願を信ぜしめんがためなり。この願を『礼讃』に釈したまうに“若我成仏・十方衆生・称我名号・下至十声・若不生者・不取正覚”といへり」
その聖教は、尊い『安心決定鈔』であったと後で知りましたが、私が拝聴したのは初めてでありました。ところが一字一句、すらすらとうれしそうにうなづく心があります。 (『死を凝視して』八八~九〇頁)
田中が『安心決定鈔』を読むのを、それとも知らず山本は喜んで聞く。今までのような不穏な疑い、仏法が分からないという思いが無く、初めて聞く聖教の言葉が、抵抗無く心に入ってくるのであった。
やがて田中女史の、聖教を読む声は止んだ。そのころからにわかにありがたくなって、自分でもわからぬくらいの早さで称名念仏が飛び出してきた。ついには足で調子をとり、歌でも歌うように念仏が出る。「山本さん、うまいことしましたね」 と皆が異口同音に言った。その返事が南無阿弥陀仏だ。地獄の火は消えて念仏となった。思わず室の中でおどり上がって喜んだ。 (『死を凝視して』九〇頁)
山本は初めて有難い心持になり、自分でも分からぬ程の速さで念仏が口をついて出てきた。皆の賞賛の声が聞える中、念仏で答え、踊りあがる喜びを感じるのであった。
なお伊藤は、この体験記が著しく特異な様相を呈している理由について、以下のように解説している〈28〉。
弥陀の摂取光明が照破する時は、その人の性格境遇に相応して無碍自在に動く。調熟の光明に育てられる時は気が付かないが、摂取の光明に遇う時に阿弥陀仏の神通力が働く。阿弥陀仏は名号と光明をもって衆生を導くが、これを抽象概念で捉えるべきではなく、生きた生命として感受すべきである、と伊藤は結んでいる。
山本の体験記は、奇怪で神経症的な経験に見えることであろう。
しかし山本の場合で言えば、野犬を捕え殺して食べたという業が、自己の後生の一大事を象徴する出来事として、自分が切り裂かれ殺される映像が目に映った。結果としてそれが、他力信心を得るきっかけとなった、と見ることができる。
以上の三人の体験記から、結核患者に後生での地獄行きを告げることの残酷さについて再考する。確かに病気で死が近づいている人に、さらなる追い討ちを掛け、死んだ後は地獄行きであると伝えるのは非情すぎる感が大いにある。その人の気質を慎重に見極めて話すべきことであろう。
しかし、無常や後生の一大事を告げられて心に驚きが立つ人は、仏縁が深い人ともいえる。病気を表面的に慰めるのではなく、仏説を告げることによって、病気こそが善知識であったと思える境地になること、また深い喜びによって病気が完治してしまう人もいることは多いに価値のあることではないか。そのためには、説き手である善知識の力量が重要であることは言うまでもない。『悟痰録』『死を凝視して』の二つの書を通じて、伊藤の結核患者に対する、善知識としての力と成果を見ることが出来る。