第四章 第一節 結核患者を中心とした布教
第一項 国嶋療法にみられる宗教的経験
国嶋療法とは、国嶋貴八郎が提唱した結核療法である。京都の国嶋病院には多くの結核患者が集まり、伊藤も昭和十三年から三年程、国嶋病院の宗教部に関わった〈1〉。
当時、不治の病とされていた結核を、薬に頼らず、自己治癒力を上げることによって完治することを目指すものである。そのスローガンは『治病は大事業なり。六尺病床これ道場』であった。六尺の布団の病床が病気を治す道場になり得るのだ、ということである。身体面では病人でもできる体操、乾布摩擦、呼吸法などを行ない、精神面では強い信仰心を持つという治療法であった。
国嶋は結核を治すのに、心に強い信仰を持つのが一番であるとすすめていた。国嶋の書に『結核斯くすれば必らず全治する』があるが、これは『婦人クラブ』という雑誌に、伊藤が「自然良能」という記事を連載し、それをまとめた書であった。そのため『結核斯くすれば必らず全治する』の著者は国嶋貴八郎となっているが、実際の著者は伊藤であった。
伊藤は記事を書いた当初のことをこのように語る。
わしが、薬師山病院にいたころ、「自然良能」という記事を『婦人クラブ』という雑誌へ、二十回ほどにわたって連載した。これが、ずいぶん反響を呼んで、連日、読者からの手紙が殺到した。―薬師山の自然良能社が、あれから全国的に有名になったものだ。実を言うと、あの雑誌の記事は、いろいろな本からの寄せ集めで、のりとハサミでつぎ合わせたものだ。医学的な知識も、にわか仕込みのものだったし、しかも、わずかの間に一気に書きとばした、つまらぬ記事だった。
しかし、ああいう記事でも、当時、結核に悩む人々には、真剣に読まれたのだと思う。それによって、一番大もうけをしたのは、病院で、結核に悩む人たちが、ぞくぞくとつめかけてきた。今日でいえば、癌のように、当時は、結核といえば、まだ不治の病とされていたものだ。 (『伊藤先生の言葉』二四一頁)
当時結核が不治の病であったため、伊藤の文章は患者等に真剣に読まれ、実践する人も多かったのである。
この記事をまとめた『結核斯くすれば必らず全治する』は、多くの結核患者に読まれた。国嶋療法は具体的には次のようなものである〈2〉。薬は使わず、腹式呼吸、病人に寝たままできる体操を毎日行う。それは仰向けに寝たままで、胸部を安静にしつつ、手足に力を込めて動かす各種の体操であった。看護人に体全身に冷水摩擦をしてもらう。摩擦は、帯芯を堅く縄のような形に絞り上げて、その先端で、手足の先から体の中心部に向かって、十センチ間隔ぐらいに一方通行に擦ってもらう。そして、何よりも心に信仰を持つことを重要視したのである。
これらは患者の仕事、と呼ばれる。以上の作業を丹念に行うことで、病状を不安視する暇もなく一日は過ぎ、夜は熟睡するのである。食事は、病人食の粥のようなものと野菜だけでなく、卵や魚など動物性の蛋白質を採って、肝油を飲む。国嶋の考えでは、日本人は元来食べ物が植物性の物になりがちであることも、病気が発生する要因だと考えていた。
まず信仰ありきでその喜びが身体を強くし免疫力を上げ、病を撃退すると考えるものであった。実際に薬も使わずに、回復して退院する者が多く出た。それ故に全国で評判になり、多くの患者が集まった。実際、病院の様子はどのような雰囲気であったか。次のような説明がある。
日まはりの花が太陽の光明を追うて廻轉するやうに夜半の北斗七星が北極星を指して輝くやうに、余の療法は如來の大悲心に向かつて進むやうに考慮されてゐる。
藥師山病院に多くの患者を収容して痛感したことであるが、余の療法が如何に佛敎的色彩が強いかは、その病院に於ける患者の態度を見て明かである。朝晩は必ず讀經の聲が聞え、念佛する者が多い。或る記者は參觀して修道院のやうだと形容し、或る宗敎家は此の病院で講演して、院長は彌陀如來だと断言した位であつた。俗的な醫療をなす院長の余が彌陀如來だといふ意味ではなく、病院全體の空気を察して、そこに如來の慈光を感じたと言ふのであつた。 (『結核斯くすれば必らず全治する』三三二~三三三頁)
病院内では読経の声が響き、念仏の声が聞こえる。時おり院内放送で仏教の法話が流れていた。
ここにおいては、何故信仰を持つことが治病に有効であったのかについて注目したい。国嶋はまず、次のようにその有効性を説明している。
先ず第一に病床の仕事を始める時の心構へを、静粛にし緊張せしむるために、南無阿彌陀佛の六字名號を稱へなければならぬ。それは治病の上に一番恐ろしい大敵である氣の病、心の惱みを去らしめることが出來る最良の方法だからである。即ち精神統一法として念佛しなければならぬ。 (『結核斯くすれば必らず全治する』二三七頁)
自己の宗敎信念が確立してゐない人は、いくら地位財産があり敎養があつても心のどん底は暗路を辿つてゐるのですから、私の療法が充分に會徳出來るか、どうかを疑ふのです。私は結核患者に接した時に先づ第一に六字の丸藥を呑ませることにして居ります。 (『結核斯くすれば必らず全治する』三四頁)
いくら財産があり教養があっても、真の信仰がなければ精神的に本当の安心を得ることは出来ない。それでは体操などの療法は効かないというのである。そこで南無阿弥陀仏の薬を飲んでもらうのが重要であるという。さらに何故信仰が必要であるか、さらに国嶋の意見が表される。
「はあ、さうです、まづ信仰からです。私の療法から佛敎を切り離しては意味をなさないのです。私は患者の枕邊に坐って大抵一時間から二時間位話を致します。最初診察に當つては三時間も四時間も說法をします。さうして先づ患者が抱いてゐる醫學的知識を根底から碎いてしまふのです。元來多くの患者は、病を醫者と藥に委せて、己れは高見の見物をしようといふあつかましい了簡も虫がよすぎるではありませんか」 (『結核斯くすれば必らず全治する』三五頁)
国嶋の考えでは、患者は病気を人任せにせずに自分で責任を取るべきだというのである。病気を医者と薬に任せるのは虫が良すぎる、という革新的な考えであった。よって患者が入院してくると、まず三、四時間も仏法を説き、患者の医学的な知識を砕く。日頃も枕元に座り、一時間説法するというのである。
何故信仰が必要であるかというと、病を治すのに最も邪魔になるのは、結核で死ぬのではないか? という恐怖心なのである。この恐怖心を取り除くためには、信仰が不可欠なのである。では、どのように恐怖心を取り除くか、さらに詳しく述べてある。
余が治療法に念佛を勸める事は讀者が既に承知して居られる事と思ふが、それは惡化せんとする精神を轉換し心の恐怖心を去るためである。
もとより念佛の信仰は眞實に生きんとする人間の心の糧として必要である。信仰としての念佛は同時に立派な治療法としての念佛にもなり得るのである。それに就ては凡百の議論を戦はすよりも余が十年來、多くの結核患者に念佛療法を敎へて非常に効驗のあつた事實が雄辯に物語つてゐる。
もとより、その人の性格、境遇、敎養の關係上、信ずる對象が南無阿彌陀佛でなくとも良い。南無妙法蓮華經可なり、南無大師遍照金剛可なり、禪的に空の一字を思ふも可なり、何れかその好む宗旨の信仰を抱けば良いのであるが、余はしばらく念佛門を中心として此の精神療法を勸めてゐるのである。 (『結核斯くすれば必らず全治する』二二五頁)
国嶋が患者に念仏を勧めるのは、精神を強化し、恐怖心を払拭するためであった。実際に治療を始めて十年経過し、多数の結核患者が念仏によって効用を得たことで、それを証明できるという。国嶋は治癒の実際について、さらに詳細に説明する。
然らば如何にして結核恐怖心を取り除くべきか。結核治癒に邪魔してゐた精神を轉向し浄化し更にこれを善用し、精神力を以て自然良能の援助者たらしむべきか。
それは余が示した幾多の例證に依つて、次ぎのような三つの結論が歸納し得らるゝ事と思ふのである。
一、信用ある醫者との人格的接觸
二、有徳な信者との宗敎的接觸
三、南無阿彌陀佛の法力 であらうと思ふ。 (『結核斯くすれば必らず全治する』二二一~二二二頁)
余は結核患者の診療を引受けた時に、最初は三時間も四時間も説法する。患者はそれだけの話と養生法とを聞けば、後は一人でやれる筈であるが、矢張り余が一月に一二度位往診して説得しないと眞面目に實行しない。經費の都合上話だけを承りおくと云つた風で余の往診を斷る者に就いて、その後の經過を聞くに大抵は悪化して手がつけられぬやうになつていゐる。又自宅療法で氣儘を云ひ乍らやつてゐる者よりも、一應余の病院に引き取つた者の方が、更に治療は速かである。
余の病院は室が少ないので止むなく自宅療法をやらせてゐるのであるが、此の事實から見ても医師と患者との人格的信頼といふ事が、如何に潛在意識的な恐怖心を去るに必要であるかゞ痛感されるのである。 (『結核斯くすれば必らず全治する』二二二頁)
国嶋病院は決して大規模な病院ではなかったので、全ての人を入院させるわけにいかなかった。診察を受け三、四時間の説法と養成法を聞いたならば、自宅でも実行は可能であった。しかし自宅で気ままに療法をすると真面目にしなかったり、自己流になったりする。金銭的な問題で、話だけ聞いて帰るような患者は非常に悪化したりする。入院をした方が早く回復する者も多かったという。
病院にいると医者と直接接触する機会も増え、人格的な信頼ができる。周りには仏法の信者がおり、宗教的な学びも多くある。感化されて求道する気持ちも高まり、南無阿弥陀仏の法力を授かることも多いためである、という〈3〉。
国嶋は、結核を治癒するための要素として、信仰の力を非常に重視していた。
それは如來を信じ、神を信ずると同じ敬虔な態度でなくてはならぬ。信は道の元であり、功徳の母であり、智慧の泉であり、努力の活原である。此の一念の力から湧き出づる力は、如何なる障害物をも突破して、必ず完全治癒の彼岸に到達せずんば止まざるものである。
余は結核専門醫として多くの患者に接して來た、さうして藥一服用ひず、最もな安價な方法と手段を以て多數の全治者を出した。
その病歴を回顧するに余の言葉に充分の信を置かず、自然良能力の活動を、何んとなく空漠たるものゝ如く考へて、深く信じようともしない人は、どうしても治癒する時期が遅い。 (『結核斯くすれば必らず全治する』二八六頁)
迷ふも悟るも信の一念である。治るも治らぬも信の一念である。僅でも狐疑心を抱く者は、その疑ひの心のために治癒期間が長びくのである。否折角恢復しかけてゐた者も元の杢阿弥になることが多い。
それは自然良能力と云ふ嚴粛な如來の威神力を信ぜざる者の、當然受けるべき天罰であり、佛罰である。余は此の氣持を宗敎的に高めて行かなければ、眞劍な治療は出來ないと思つてゐる。
されば患者は如何なる難病も自然良能力に依つて必ず治ると先づ信じなければならぬ。 (『結核斯くすれば必らず全治する』二八七頁)
国嶋は、どの種の病気の患者も、まずは自然良能力を信じなければ治病効果は現れない、という。
そして、仏法の現世利益について国嶋は言う。
一たい佛敎の眞理なるものは、佛法丈に間に合ふもので他には役に立たぬやうに人々は考へ勝であるが、それは大きな間違ひである。眞の佛法は世間法一切のものが、それに依つて説明されなくてはならぬ。換言せば今まで叙べて來たことが全部佛法であつて、今更改まつて説くべき佛法は無い筈である。 (『結核斯くすれば必らず全治する』三三一~三三二頁)
仏教の教えは決して、後生だけを解決するのではなく、世間の全てのものが仏法によって説明出来るものである、というのである。以上のような形態をもっていた国嶋病院について、実際の患者たちの体験記を取り上げる。
一、貧しさから国嶋療法に頼り、完治に至った患者
憶へば今年の春、私の話を傳へ聞いて「藥が不要などとは貧乏人の氣休め療法だ」などと、嘲笑してゐたお醫者の愛嬢―當時女醫をしてゐた―初め百萬長者の人々も哀れ既に他界され書物一冊と只信ずる一念のみで正しいこの療法を驀地に進んだ私に、この貧乏長屋に凱歌が擧つたのでした。誠に貧乏故に救はれたのです。こゝ迄固い決心が出來たのです。貧乏も時に有難いものとつくゞゝ思ひました。
顧みれば寔に貴重な又と得難い一年でした。その間病床を道場として療病に専念し、僅かに一休白穩禪師の法語集二冊だけを慰めに、先生の御著書一回の讀破は即ち一回の御診察と心得て心の迷ふ度毎に前後を通じて十數回は讀破したことでせう。それで重要な頁は殆んど諳誦出來る迄になりました。 (『結核斯くすれば必らず全治する』三五八~三五九頁)
裕福であるが故に、国嶋療法を軽蔑して投薬治療を試みたが、あえなく病死した人々がいる。それに対してこの患者は、貧者ゆえに『結核斯くすれば必らず全治する』をひたすら信じ、決意して治療し、一年にして完治を得たのである。これは貧しさをみじめに思っていた人生から百八十度の転換があったもので、貧しさ故に効果のある療法へと辿り着き、仏法者とまで成り得た好例である。
次に、初めは現代医学を信じていて国嶋療法を信じなかった患者が、一週間で良好になった例を挙げる。
何處の醫師でも食前食後の服藥を病人の日課として割當てられて居るのに引換へて説敎、腹式呼吸、病人の體操だけで藥一つ與へられない。科學萬能主義に養はれた私には、何んだか調子が一變して先生には誠に申惡い事であるが、こんな事で不治の病が癒るものか、醫師の價値が何處にあるか馬鹿々々しいと、寧ろ經侮の念を起した事は偽らざる告白である。
併し「唯是使命之儘矣」の一言に總てを先生の儘に、精神を統一し一擧手一投足一呼吸をも忽にせず先生の説諭を聞いた所、不思議や、僅に三日目から腹具合は服藥當時よりも最も良好に精神は最も壮快になつて、一週間目にはモー起きても好いでせうかと問うた位である。 (『結核斯くすれば必らず全治する』三七二~三七三頁)
国嶋の「唯是使命之儘矣」の一言に感銘し、集中して治療をし、一週間で良好となった患者である。指導者への信頼と治療への集中が効果を表していることを示している。
次に、指導者に対する反発を持っていた患者が、治療に取り組み、人格的にも改善された例を挙げる。
「よし、もう先生に頼まん、俺は俺で治す、色々思ふな、といつても思ひ浮ぶのだ、そんな事にくよゝゝするな、早く治ればいゝのだ」と自分に言ひ聞かせた、併しこの時程今迄宙に覺えてゐた自然良能力の理論を始めから味ひ直した事はなかつた「俺が治そう」とすると非常に忙しい。今迄の樣に色々の事に思ひ惱まされる閑がない、一日中その仕事に追はれてゐる、二三日も立つと一寸頭が落付いた樣だ。飯もうまい、こりやいゝ、とやつてゐる裡に隔日に來て無愛想な先生の振舞が、何だか今迄とは違つた感じがする。しようとしてされるのでない言行が、無意味でなささうだ。見れば見る程、引きつけられるものがある。まるで自分の欠點を諷刺されてゐる樣にも思へる。成程なあ、こりや直さな駄目だ。之も面白い。いゝ敎訓だと、それから注意して見る樣にした。さうなると實に忙しい、病氣治癒と人間改造と二つの仕事をせねばならぬのである。 (『結核斯くすれば必らず全治する』三七七頁)
指導者への反抗心を持ちつつも、病を人任せにせず、自分で治すと決心してから良好に向かう。国嶋療法の「仕事」を指導通りに行うと非常に時間がかかり、多忙である。様々な事を思い悩む暇もない。二、三日で調子も上がり、自己への内省も進むのであった。結果的には病気も治療され、人格的な欠点も改善された。
最後に、治療を通して全ての事物に感謝の思いを持てるようになった、という患者の例を挙げる。
即ち目の前に並べて頂いた御飯、魚、肉、野菜、果物等總ては我の生命力を保ち活溌にして呉れる爲彼等の生命を犠牲にして呉れたのである。食べて上げねば彼等を犬死さすものだ、勿體ないと心に思ひ一口入れては百回以上咀嚼することにより妙に咽喉を通るのでした。
初めの内は看護の仕方とか、調理法とか、室内の掃除等に至る迄不平や叱言を並べ、我と吾身に苦しんで居たのでしたが、或日ふと天氣模樣を不平言うたからとて自分の意志通り働いて來るだろうかと考へて見た。之はどうしても自我を枉げ天候に自分を調和して行かなければなりません。さうすれば今迄が他人の立場を考へてやる暇なしに餘りにも利己主義であつた事に氣付かせて頂き、夫からは人に對し物に對しても先づ感謝を捧げることゝとした。
さうすると心中の餘裕が出來、今迄欠點のみがよく目に止り不平の起きた事も今度は反面の長所が見え、より満足するを得て常に心は穏かに、樂しく日を送る事が出來たのです。之は要するに自覺するとせざるに依らず病床上の修養によつて敬虔の氣持ちが出來たからだと思ひます。 (『結核斯くすれば必らず全治する』三八〇~三八一頁)
それまでは、病院内の様々なことに不平不満を持ち、自分を苦しめていたが、治療を進める内に自分が利己主義的であることに気付いた。それ以降は、何事にも感謝の思いを捧げることが出来るようになり、心も穏やかになったという。
国嶋療法を通じて、信仰心が様々な現世利益をもたらすことが分かる。勿論、中には獲信したにも関わらず治病に至らず、安らかな死を迎えた者もあった〈4〉。また前述したように、治療が終わってからも、法を求め合った人間関係は続き、それが華光会の成立へと繋がっていったのである。