第四章 第二節 華光会の設立
華光会は、一九三八年ごろから三年間、伊藤が布教していた京都の国嶋病院での宗教部が発端である。以下、その結成と発展の流れを記す〈29〉。
当時、国嶋病院は、不治とされていた結核に対して、『結核かくすれば、必ず全治する』の著者・国嶋博士によって開発された自然良能法による治療を行い、世の注目を浴びていた。伊藤は、その患者に対して、心身の安静のための宗教指導に当たった。そこでは、患者と付き添い、医師などの病院関係者の間に、求道を始める人が続出する事態となったのである。
最初は治病のための信仰であったが、信仰のために生命をかけるようになり、病院内から批判が起ってくるほどであったという。一九四一年九月、国嶋病院は軍部に収監されたため、宗教部も解散となり、伊藤は国嶋病院より身を引いた。
同年十一月、信仰雑誌『華光』誌を創刊する。これは国嶋病院関係者(患者、付添い、医師など)を中心にした文書伝道の始まりであり、自宅療養者を含めて、求道者たちへの信仰指導、および法味交流のための同朋通信を目的としたものであった。
一九四六年、龍谷大学生を中心に本格的な布教活動を始める。後に同会代表となる増井悟朗が龍谷大学に進学するとともに、龍大や京都女子大学(当時の京都女子専門学校)の学生の間にも広まり、学生が活発に布教を行うにつれて急速な発展を遂げた。
それまでは、『華光』誌の編集局が、興正寺本山内にあった関係で、月々、その婦人会館などで信仰座談会が持たれていた。その会員の増加に伴い、華光大会を開催して全国の誌友同人が合宿して聞法し交流するようになった。
やがて参加者が増すと、集会に様々な問題が起きてきた。法話を聞き、座談をする中で同行も求道者も熱く語る。深夜まで大声で念仏を称える声や、泣く者もあり、集会場所の旅館などから苦情が出た。一度使用すると次回からは断られることも多くなった。
そこで、会館をもつことが話し合われたのである。当時、華光会の中心となっていた僧侶は増井悟朗、西光義敞、吾勝常晃、高森顕徹などであった。伊藤は会館という財産を持つことには反対であった。縁があって皆が集まっているが、何があって争いとなるか分からない。解散となった時には、会館を取り合うことになる、というのが伊藤の意見であった。後で争いの元となると懸念をしていたのである。しかし、熱心な同行であり、実業家であった北口光三の協力もあり一九五七年三月、華光会館(京都市南区十条)が聞法道場として創建されるに至った。建物は、当時京都の九条陶化小学校の木造建築が売りに出ていたのでそれを買い求めて建てられた。翌年、「華光会」として宗教法人に登録。
伊藤は華光会の創設者であるが、華光会の活動を引き継ぎ大きく発展させたのは増井悟朗(一九二五~二〇一五)の働きによるところが大きい。伊藤は華光会館の建設に反対したことからも分かるように、信仰雑誌『華光』(通称・華光誌)を通じた文書運動と年に数回の集まりを持つ以上の活動は考えていなかったように推測される。ここで、華光会を引き継いだ増井に注目し、どのようなして活動を発展させ得たのかを検討する。
増井悟朗(一九二五~二〇一五)は、伊藤康善が始めた華光会を引き継ぎ発展させた人物である。増井は一九二五年、大阪の商家に生まれた。仏法と縁が出来たのは、母親の増井エイが、非常に熱心な念仏者であった影響が大きい。増井が生まれた頃、両親はある大谷派の僧侶の話を聞くメンバーに入っていたようである。父親は、母親ほど聞法熱心ではなく、善人で騙されやすかったので、エイは随分苦労を重ねた。増井は、幼少の頃から、日曜学校に熱心に通い、母親の説教聴聞の供をしていた。十番目の末子であったため、母親の寵愛を受けて育った。旧制中学に入り、理科の教育を受けたころから、一時期、仏法から離れていた。しかし、肺結核を患ったことが、増井を仏縁へと再び強く結びつけたのであった。
母親が寺院の説教で国嶋療法のことを聞いてきて、その治療法を試みることになったのである。母親の献身な看病と、彼女が称え続ける静かな念仏が心に沁み、増井には仏法を聞く気持ちが再び起こってきたのである〈30〉。
当時の戦時教育からすれば、戦争にも行けず、母親に看病をさせている増井は不忠不孝に当たるのである。増井は同世代が戦争に行く中で、ただ療養生活を送っていることを遺憾に思っていた。そして、不退転の信を得ることで友人を見返したい、という思いで、求道を始めた。さらには、母親の逆境に負けない念仏に心打たれ、次第に真実の信仰に心が開かれていったのである。
絶対の安静生活を送らなければならない増井が、求道の支えに出来たのは仏書だけであった。次々と仏書を取り寄せ読んでいたが、ある日、有難そうな本を注文したつもりで一円ほど送ったところ、間違いで一円五十銭もする本が送られてきた。それが伊藤の著書『仏敵』であった。増井は同書の中で展開される世界に感動し、これこそ自分が命をかけるべきものだと決意したという。
真実信心の境地に憧れた増井は、療養よりも求道を優先した。三カ月熱心に求道し、ついに獲信し、阿弥陀仏の本願をよろこぶ身となったのである。一九四四年二月三日、増井が十八の年であった。
戦後を迎え、伊藤の勧めもあり、仏教大学(現龍谷大学)へ入学した。また増井は伊藤から、得度するならば、伊藤と同じ興正派ではなく、より大きい組織である本願寺派で得度するようにと勧められた。そして大学での研究内容についても、本願寺派の宗学だけではなく大谷派の宗学も学ぶよう助言を受けている。増井は大学での勉強だけでなく、華光会の業務、さらに学費を稼ぐための商売をこなしながら、研究科まで進んで学業を修めた。そして布教実践においては、伊藤に師事し、つとめて同行学を修めることで求道者に信を勧めることを学んだ。
前述したように一九五八年に華光会が宗教法人登録されたが、同会の中心となっていた僧侶等は、増井を除いて皆自坊を持っており、増井が華光会の代表役員となった。会館は建てたものの、その借金は残った。華光会館では法座以外にも、書道、そろばん、茶道、華道、ピアノ教室などの文化教室をおこなうことで借金を返済していったという。
華光会は教団に属さない独立法人である。現在の一般寺院においては、法事と葬儀が活動の中心であり収入源である。しかし華光会はそういった活動を行っておらず、聞法と求道のために結びついた同朋集団である。檀家制もなく、納骨堂や墓なども持っていない。伊藤の存命時と変わらず、後生の一大事をスローガンに掲げ、信仰活動のみで機能している集まりである。運営形式としては同人会組織であり、華光会の活動に賛同する者が同人となり、その会費収入によって活動が維持されている。
今日では、京都の華光会館の他、北海道、東京、名古屋、高山、大阪、北九州にも支部があり、各支部で月例法座、支部大会などが行われている。
華光会の存在は、宗教組織でありながらも、ジェイムズが示すところの「二番煎じ」の組織になっていないところに、大きな意義があるといえよう。本来、仏教は法事や葬儀のためにあるのではないことは、言うまでもない。浄土真宗においては親鸞が示したごとく、獲信し生死出ずべき道を解決することに目的がある。その目的のみを活動の中心としている華光会は、宗教組織としての一つのモデルケースといえるのではないか。
なお西光義敞の影響により、華光会がその活動に真宗カウンセリングを取り入れたことは、第六章にて言及する。