第四章 第三節 第二項 『安心調べ』における論点
『安心調べ』は伊藤が三十八~三十九歳の著作で、一九二九年から宗教新聞『文化時報』に連載したものから、好評であったものを編集して一九三五年に出版された。一九九〇年に華光会より再販されている。この書に取り上げられているのは、仏教界の著名人や念仏主義の人々、また『歎異鈔』への批判なども述べられている。西光は『安心調べ』をこのように評価している〈35〉。
もう一つ注目すべきことは、このかたは二十歳代で『真宗安心調べ』という本を出しています。こ れは当時真宗界の一流の方々を次々取り上げて、格好いいけど不徹底だとか、この辺はおかしいとか、またこれはいまどうなっているのか等々、おもしろおかしく、しかもポイントを押さえて批判したユニークな本なのです。さっと追って、すっと引いていくあたり絶妙です。非常にユーモラスな文体で、しかも要のところは外していない。いま読んでもこのような文章を二十代三十代の人が書けるだろうかと感心するような鋭い切り口で書いておられる。
この『安心調べ』を書いたために、伊藤先生はずいぶんあちらこちらからにらまれたようです。定評ある真宗界の著名人を若僧が評論したからでしょうが、大正デモクラシーの影響を受けた人で、筆がのびのびしています。このようなかたが昭和期の初めにいたということを、私はもっと重視したいと思っています。
西光は『安心調べ』に非常に魅力を感じており、伊藤の文体を大正デモクラシーの影響を受けたのびのびとしたものであると評する。当時における真宗界の一流の人物を取り上げており、ユーモラスな文体でありながら、真宗の要をおさえているという。そして若干三十代の青年がここまで鋭い批評ができるか、と驚きを隠せない本であるという。
華光会代表の増井悟朗はこの書物についてこう述べる〈36〉。
今日でこそ、その評価が決定しているが、たとえば金子大栄、曽我量深、野々村梅所氏などの異安心問題は、当時は東西両本願寺をあげての大騒動だったのである。本書は、そんな時事問題をとりあげて、大胆でユニークな論評をしているわけだが、それが、まことに本質を突いた的確さであったことに驚嘆せずにおれない。しかもその論評姿勢や表現が、少しも深刻ぶらず、こむずかしい専門用語にもこだわりを感じさせないで、読者をして笑いの世界に引き入れるとともに、さらに一歩進んで、真宗の安心の何たるかを熟考し、反省させずにはおかないという、不思議なふかい魅力をもっているのである。
増井は『安心調べ』の魅力は、伊藤の文体が深刻ぶらず、ユーモアを含めながら読者をひきつける点にあるという。宗教専門紙『文化時報』は、この『安心調べ』の連載によって部数をのばした。初版発行後、一カ月で再版を出している。さらにこの書は真宗の安心がなんであるかの本質をついている。伊藤がこのような書物が書けたのは頭脳明晰であり博学であったこともあるが、伊藤自身に真実信心に徹する廻心の体験があったからであると、増井はいう〈37〉。
中には毒舌を極めている表現もあり、本書で悪名が広がったために教界の評判は良くないと伊藤は自覚していた。しかし、この本の随所に伊藤の教学の特徴があらわれている。
伊藤自身が前書きにおいてこう述べている〈38〉。
僕の半生は仏教ジャーナリストとして送ってきたが、一部の人達から毒舌家という酷評を受けてゐた。僕の特徴が毒舌にあるのならば、今更遠慮すべきにあらず、思ひのままに叱らうと思って、教界先輩に對して、吐ける丈の悪口を飛ばして来たのが本書である。
伊藤の言葉通り、文体は時に毒舌であり、品位を疑われるような表現もある。しかし、伊藤は「信疑廃立」を中心として批判を展開しており、主旨は一貫している。
さてこの項では、特に伊藤の教義の特徴が現れている第二十九章「『歎異鈔』批判の巻」を取り上げる。伊藤は、真宗界では明治時代より、対外的に呼びかける手段として『歎異鈔』が使用されたのだという。『安心調べ』でも取り上げた清澤満之、近角常観、倉田百三、石丸悟平、西谷順誓、暁烏敏、羽栗行道、梅原真隆らについて、『歎異鈔』を種本として暮らしてきた人々だと伊藤は批判する。よって『歎異鈔』を批判することで、先にあげられた人物をもまた批判できるであろうと伊藤はいう〈39〉。
『歎異鈔』といふ聖教は文章が上手に書けてゐる。丸で女郎の戀文を讀むやうだ。併し女でも着物の柄や、顔の化粧で美しく外見を飾る者は、それ丈心の中は糞壺のやうに穢いものだ。文章も綺麗な言葉や、匂ひのある詩句で飾つたものは内容が貧弱である。殊に信念を以て立つ佛教の法語には、べつとりとお白粉をつけた美辞麗句を排すべく、これを藝術的に表現せば、藝術に魅了されて肝心の魂を失ふのである。親鸞や蓮如の書いたものは、岩角で頭を打ちつけるやうなゴツゝゝとした惡文が多いが、それ丈に鋭い信念の閃きがある。あれば若し『平家物語』等のやうに流麗な筆致ですらゝゝと書き流してあれば、吾々の愛讀書とはなり得るが、魂の糧とはならぬ。蓮如の御文章にも時々名文もあるが、さうしたものに限つて信心が春霞をぼかされた様になつてゐる。 (『安心調べ』二九七~二九八頁)
伊藤は、『歎異鈔』は文章としてよく書けているが中身が貧弱であるという。親鸞や蓮如の書物にはゴツゴツとした悪文が多いが、信念の閃きがあり、魂の糧となる。『御文章』の中にも美しい文章はあるが、そういった箇所は信心の要もぼやけているという。伊藤の批判は続く。
『歎異鈔』は磨きのかけた絶好の随筆だが、美しいから欺され易く、讀み易いが内容は空虚である。布教師等が説経の中に引用すると、言葉の節廻はしが良いから樂に使へるが、それは舌頭三寸をすべつて了ふとあとは何も残らない。匂ひや響きや節のために、トロリと醉ふやうに出來てゐるが、その爲に剛健な親鸞魂がすつかり去勢されてゐる。
定めし「歎異鈔」の作者に女のつけ文を書かせると、一筆しめし参らせ候はぬ間に女が参つてしまふことゝ思ふ。亦若い頃には顔のニキビを捻りつゝ、センチメンタルな戀文を綴つてヒメを泣かせてゐたらしい教界の先生達も、頭の禿げた今日まで『歎異鈔』を云云し、何だか戀文の匂ひのする優しい書き方で『歎異鈔講話』とやらを雨後の筍のやうに續出するのは、性欲の變態現象である。 (『安心調べ』二九八頁)
『歎異鈔』は、美しい文面で人を酔わすが親鸞の剛健さが失われていて、後には何も残らないと伊藤はいう。そして暁烏敏の著書『歎異鈔講話』などの『歎異鈔』関連本をも批判するのである。次に伊藤は、具体的な箇所を指摘して、批判の理由を説明する。
殊に不愉快を感ずるのは、その惡人主義の思想である。「善人なほもて往生を遂ぐ、況や惡人をや」とか、「他力をたのみたてまつる惡人、もとも往生の正因なり」とか云ふ飛んでもない邪義を主張してゐる。『歎異鈔』が流行した爲に、今日では社會人の常識として眞宗とは惡人のみが救はれる教えのやうに誤解されている。
俗間でも「門徒物知らず」と云ひ、「後生願ひと松の木にまつすぐな者はない」と云ふ。つまり正直者より不正直者、親孝行の者より親不幸者、社會生活の道徳を守る者よりも、それを破る者―尅實すれば刑務所で赤い衣を着る惡人のみが如來に救はれる資格があるので、その證據には本山の法主は法事の時に赤い衣を着るし、坊さんも位の上な人は、皆赤い衣を着て見本を示してゐると云ふ。 (『安心調べ』三〇一頁)
伊藤が特に不愉快に感じるのは、真宗は悪人が救われる教えだと誤解されていることである。世間において、不正直で親不孝で道徳を破るような者が救われる資格がある、といった誤解が起こっている。その事態にに腹立ちを感じていることを、辛らつなユーモアを含め語っている。
一たい『歎異鈔』といふものは何處の馬の骨が書いたか解らない法語である。唯圓房だと云ふ人があるが、それも二人の唯圓房があつて結極誰だか解らない。僕は親鸞滅後、京洛で流行した念佛宗のスパイが、原始眞宗の信仰を惑亂させるために書いたものではないかと云ふ疑を抱いてゐる。それは現代の『歎異鈔』崇拜の有象無象が、あたかも親鸞主義者のやうな假面を被つて似而非なる信仰を叫び、正しい眞宗の安心界を惑亂させてゐると同様なものである。 (『安心調べ』三〇三頁)
伊藤は、『歎異鈔』は作者の定かでない真宗界を惑わす法語であるという。原始真宗の安心を乱すために念仏宗が策略したものではないかという。
眞宗の安心は血脈相承のもので、師業口傳に依つて廣まるものである。吾々親鸞學徒は、祖師聖人の「教行信證」に立ち、覺如上人の「改邪鈔」、蓮如上人の「御文章」に一貫した願成就の信一念の錦の御旗をふりかざして進む。「歎異鈔」がたとへ法弟唯圓房の作にしても、そのやうな傍流の聖教に安心の依憑を認めないのである。若し認める者があれば、そい奴等は眞宗の信者ではない。 (『安心調べ』三〇三頁)
伊藤は親鸞学徒が頼りとするべきは、親鸞の本典(教行信証)、覚如の『改邪鈔』、蓮如の『御文章』であり、本願成就文の信一念を安心の要とするべきであるという。
經の上では、觀經下三品の安心に据つて、未だ大無量壽經の眞實法門を知らない。だから相對の念佛や、善惡の沙汰や、煩惱の問題ばかりに着眼點を置いて、願成就に示された佛智の不思議を顧ようとはせぬ。廃立の上では信の座をすてゝ、行の座に坐ることを勸めてゐる。往生はと云へば、現益の即得往生、不体失往生を示さずして、死んでから後の未来往生ばかり説いてゐる。その上に佛教に對しては、恐ろしい無智文盲の男だと見えて、聖道諸宗に對する批判も全然的の外れた批評を加へてゐる。萬一此の者が、祖師聖人に近接した法弟であるにしても彼は祖師の本典を讀まなかつたのであらう。祖師も亦此の人の安心に疑はしい點を見抜いて、本典の内閲を許され無かつたのであらう。 (『安心調べ』三〇四~三〇五頁)
『歎異鈔』は大経の真実信心で救われるのではなく、観経下三品念仏往生であると伊藤はいう。そして成就文に記された念仏の不思議をかえりみず、相対念仏、善悪の沙汰、煩悩の問題ばかり気にしている。即得不退転を言わず、未来往生をいう。伊藤はこの作者は親鸞の本典を読んでおらず、教学をあまり知らない人物であるという。
見よ! 『歎異鈔』の各節に稱名本願を説かざるはなし、たゞ念佛して彌陀に助けられると、稱名念佛が所信の對象になつてゐる。第二節だけで念佛の言葉が六ケ所、前拾節丈で二拾ケ所、口を開けばすぐ念佛だ。
第拾一節の誓願名號の別執を破るにしても「誓願の不思議によりて、やすくたもち、稱へ易き名號を案じいだしたまひて、この名字を、となへんもの迎へとらんと御約束あることなれば」と稱名本願説を以て、誓願不思議を難破してゐる。如何に此の作者が念佛に固執するかは、此の念佛に依る化土往生まで勸めてゐるのでも解るだらう。
これは眞宗の安心を深く考へた事のない人には大様に通り過ぎる問題だが、尠くとも親鸞聖人が眞實の經を大無量壽經に置き、願成就文を説明するために、本典「信巻」の上下二巻に亘つて詳細に説述された立場からは、断じて許容さるべきものではない。 (『安心調べ』三〇四~三〇五頁)
『歎異鈔』の各節には称名して救われるとあり、称えるものを救うという表現がある。伊藤は信心で救われていく誓願不思議を無視しており断じて許されないという。
何故に『歎異鈔』のやうな正體の曖昧なものが人々の心に喰ひ込むのであるか? それは本願の信心を求めんとして求め得ず、等覺不退の大歡喜に踊り上つたことのない人間が、何んとかして疑ふてゐるまゝで安心する道はないかと暗中模索する者に取つて、『歎異鈔』には無數の安樂椅子を用意してあるからだ!
或る者は「たゞ念佛して助る」の椅子に坐る。或る者は喜びのない心のまゝ「此の不審ありつるに」の椅子に坐る。或者は聞いてもゝゝゝゝ解らぬので「よろづのこと空ごとたはごと」の椅子に坐る。或る者は惡人此のまゝのお助け、「況んや惡人をや」の椅子に坐る。或る者は煩惱心を抑へて「安養の淨土は戀しからぬ」の椅子に坐る、坐つて居り乍ら自分も亦不安であり、何んとなく往生に落着がないのだ。言はゞ蛇の生殺しのやうな信仰だ。 (『安心調べ』三〇五~三〇七頁)
それではなぜこの誤った解釈をしている『歎異鈔』が、人々の心をとらえるのか? 伊藤は求めども信心を得られず、獲信をしてない行者たちにとって、座り所を見出せるからであるという。この批判をまとめると以下となる。
・「たゞ念佛して助る」・・・・・・他力信心の無いものが念仏だけでいいのだ、と安心する。
・「此の不審ありつるに」・・・・・・浄土に行きたい気持ちが無いことも構わないのだと思う。
・「よろづのこと空ごとたはごと」・・・・・・聞いても聞いても分からない者が安心する
・「況んや惡人をや」・・・・・・悪人をこのままで救ってくれるのだ、と安心する。
・「安養の淨土は戀しからぬ」・・・・・・浄土が恋しい気持ちが無くてもいいのだと安心する。
以上のような、信心が徹底しないものにとって気休めになり、求道を妨げる危険な言葉に満ちていると伊藤はいう。
『歎異鈔』の作者自身も此の不安があつたと見えて、結末に至つて「おほよそ聖教に眞實權假ともにあひまじはりて候也」と告白してゐる。スパイとして少々情量を考へてやつても好いのは此の一句だけだ。此の廃立の言葉は蛇尾に光る寶劒である。此の劒を以て前十八節に現はれた金毛八尾の狐の尾を切るべきである。
「たとひ法然上人にすかされまゐらせて、念佛して地獄におちたりとも、さらに後悔」せぬとか、「善人なほもて往生を遂ぐ、況んや惡人をや」とか、「惡人往生の正因なり」とか、「此の名字を稱へん者をば迎へとらんと御約束あることなれば」とか、「本願を疑ふ善惡の宿業を心得ざるなり」とか、「親鸞は父母孝養のために念佛せぬ」とか、要もない不淨言葉を以て、多くの求道者を欺ました狐の尾は、此の眞實權化の廃立の劍を以て斬るべきである。 (『安心調べ』三〇五~三〇七頁)
伊藤は聖教の中に、真実権仮が交わっているというところだけは、その通りであるという。自力と他力の廃立をもって『歎異鈔』を切るべきであるという。
淨土眞宗の教へは、惡人のみを救ふ教でもなければ、善人のみを救ふものでもない。如來の大悲に依つて猫も杓子も救ふやうな大ざつぱな教へではない。眞宗は慈悲門でなくして知慧門である。慈悲ならば三世諸佛にもあるが、知慧は彌陀一佛に限る。隨つてそれは極難信の教へであつて、宿善深厚の大機に非ずんば味ふべからざる難透、難解、難入、難信の法である。その安心の根本は、願成就の信一念にあり、此の佛因の信を獲得して佛果の大涅槃を悟る佛因佛果の教である。
此の信一念は説明を聞いて解るものでもなければ、自から獲ようとして獲られるものでもない。大死底の人、却つて活するの時如何―と云ふ風に、求道の絶壁に行詰つて、悲叫悶絶、逆謗の死骸を如來の前に投げ出した時に、爾の胸中より活火山の如く燃え上る信一念である。 (『安心調べ』三〇九頁)
『歎異鈔』といえば、悪人正機という言葉が定着しているが、伊藤は真宗の教えは悪人目当てでも善人目当てでもないという。阿弥陀仏の敎えは智慧門であり難解、難信の法である。安心は称名念仏ではなく、信の一念にあるのであり、正因である信心を得なければ、涅槃に至ることはできない。この信の一念は頭で理解するものでもなく、自力で得られるものでもない。求道をし、行き詰まり悶絶してどうにもならない我が身を弥陀の前に投げ出したときに、やっとひらけてくるのであると伊藤はいうのである。
だいたい、真宗学者とか、大学学教授などと自称するやつらの話は、理論が、虚空に舞いあがってしまっているからだめじゃな。わしは、君たちの年ごろに、『教界諸氏・安心調べ』という、怒号嘲笑の本を自費出版して、片っぱしから、教界の大物、小物どもを、批判攻撃したったことがあった。当時、朝日新聞社の、「天声人語」を書いていた永井だけは、激賞してくれたが、あとのやつらは、グズグズ言っていた。しかし、だれ一人として、正面から戦うやつはいなかったな。わしは、今の仏教界に、気迫というものが、全くなくなっていると、つくづく思ったものだ。(中略)
如来本願の浄土を持つわれわれ親鸞学徒は、勇気をふるい起こすことだ。将来、君たちは、どこで暮らすことがあっても、この親鸞魂は、忘れないでもらいたい。 (『伊藤先生の言葉』一八三頁)
『伊藤先生の言葉』 には、伊藤が『安心調べ』を描いた当時の気概が記されている。伊藤が同書を書いた時、三十二歳であった。真宗界の著名人を徹底的に批判したわけであるが、正面から伊藤と対決してくる人物はいなかったという。朝日新聞において昭和初期から十年間にわたって天声人語を書き続けた永井瓢斎(一八八一~一九四五)は賞賛してくれたという。伊藤から若い親鸞学徒に対しての、勇気を持つ精神を受け継ぐ事への期待がこの文章にあらわれている。
『安心調べ』の辛らつな内容に嫌悪を覚える向きもあるだろう。しかし同書が信疑廃立、自力と他力の廃立という視点に立脚して批評を展開したことこそが、注目すべき点であると筆者は考える。