第四章 第三節 第三項 『アメリカ同行順礼記』における、宗教体験者への取材
『アメリカ同行順礼記』は一九六一年に発行された。伊藤がインタビュアーとなり、アメリカ在住の同行達にその信仰体験を記録したものである。
アメリカ開教の歴史は、日本移民の増加によって始まったものである。慣れない土地で差別を受け、開拓の苦労を重ねた日本人にとって、安らげる場所が必要だった。まずはハワイに一八八〇年代、本願寺の開教地点が作られ、サンフランシスコには一八九八年に本願寺開教使が着任している。
一九五七年六月、伊藤は中外日報嘱託として渡米布教を行った。そして『中外日報』に『北米赤毛布旅行』を連載。一九五八年二月に帰国した。米国滞在中には多数の求道者と出会い、その体験を見聞している。それを録音し記録したのが『アメリカ同行順礼記』であり、アメリカに渡った同行の体験を詳しくつづった同書は、貴重な体験記だといえる。
当時、北米を旅するには高額な旅費が必要であった。費用の工面は、伊藤を善知識として獲信した僧侶・由上正道が工面した。『アメリカ同行順礼記』の序文に羽栗行道が、伊藤がアメリカに行くことになった経緯を説明している。
由上師は京大出で仏教学を修められたのであるが、学生時代既に八十日も北海道から樺太まで徒歩で求道の旅をせられた事は、今度始めて知った。その由上師が北米で開教使をしながら矢張り熱心に求道し、同行を一人々々廻ってこられたが、ラチあかず遂に、意を決して帰朝し、『仏敵』を読んだ御縁で伊藤康善師の元に馳り込み、遂に救われの身となられたのであった。
そうした関係から、一九五九年に恩師伊藤師を迎えて、ハワイと米本土を案内して廻られたのである。これは大きな仕事で、同朋間に及ぼした影響は深いものがあった。伊藤師は大体に於いて口よりも筆の人であって、各地を巡講しながら、『北米毎日』(桑港日本字新聞)に二ケ月にわたって毎日麗筆を振われたので、同朋間に信心という事を見なほす人が多くなったそうである。
此の巡講の間に十数名の有名な信者を訪問して、その人々の信味を問答体に引出して行ってそれを纏められたのが、今回出版された『北米同行順礼記』である。これは伊藤師がテープレコーダーを活用された日米教界切っての新しい試みで、全く伊藤師の新発明の方法である。一人々々の真面目が躍動しているのが此の書であって実に有難いものである。 (『アメリカ同行順礼記』二頁)
由上正道は大阪の東本願寺の生まれであった。京大で仏教学を学んだが、修行僧の指導を受けたく思い、禅寺に入って禅を学んだ。京大を出て、ロサンゼルス別院の泉原輪番の要求でアメリカ行きに加わる。米国時代、カリフォルニア州バークレーに寺院を創設した。アリゾナの砂漠地帯での捕虜生活をきっかけに求道をはじめる。開教使であるにも関わらず他力信心が分からない自分を恥じた。北米で信のある同行を巡り求道するが行き詰まり、もっと時間に余裕があるハワイのカワイ島の東本願寺に移る。
その頃取り寄せた『仏敵』『安心調べ』『善き知識を求めて』を読んで感激し、信仰の指導書とする。その後一九五二年、日本に帰国して伊藤を訪ね、求道の末に信楽開発したのであった。由上はその後、ぜひ伊藤を招いて同行を教化してもらいたいと願い、アメリカの同行らに寄付を募った。その結果多くの寄付金が集まり、伊藤の北米布教が実現したのである〈40〉。
この書に取り上げられている同行は十四名で、北米各地の人々である。その中には麻生主悦、羽栗行道、由上正道などの僧侶も含まれる。今回は同書から体験記を取り上げる。
当時の同行達は戦前にアメリカに渡っている。苦労して商売を興し、経済的に安定しつつあった時期に第二次世界大戦を迎え、財産を全て無くして強制収容所に入れられた人が殆んどである。そして戦後を迎え、再び一からスタートを切り、必死で生活を立て直した。その人生も壮絶だが、仏法の求め方も壮絶である。日本での求道とはまた違う、迫力を感じさせるものである。アメリカの同行達は、善知識がいると知れば何マイル離れていても駆けつけた。たとえ国を変えても後生の一大事をかけて求道してきた人々である、と筆者は考える。
また、伊藤が主筆していた『真宗の世界』は北米でも多くの読者があり〈41〉、『仏敵』もすでに読まれていたという。
ところがオーナツグロープの農場には寺院もなければ教会もありません。幸に隣家の吉田さんという方がハワイからお出になって主人を亡して第二の主人と暮して居られました。この方が毎日曜に日曜学校を開き、自宅を開放して婦人が仏教法話をして下さいます。先生の『仏敵』をアメリカに紹介して下さつた方もこの吉田夫人です。婦人の熱意で後年には仏教会も建設されましたが、この婦人のところで毎晩のように法話を承りました。 (『アメリカ同行順礼記』三九頁)
サクラメントで池本旅館を経営していた池本夫妻の夫人が体験記にて、吉田という婦人が『仏敵』をアメリカに紹介したと話している。
ではここより、同書に収録されている体験記を見ていく。
『求道聞法三十年』
山本栄一は滋賀県生まれでペタルマで養鶏所を営んでいた。最初の仏縁は中学校の恩師である、大畝正一の影響であった。大畝正一は自身が禅宗で宗教的な体験があり、信仰に徹していた。山本の父はすでに渡米しており、卒業後には北米に行く決心をした。別れの際に、大畝が社会で成功することよりも、是非ひとつの信仰を極める人になれ、と言われたことが深く心に残っていたのである。つねに大畝の言葉が頭をさらなかった。転機となったのは、キャンプでの収容生活であった。カナダの寒冷地区ミリゾナに四年間いたときに法話を聞き続けたのである。当時は神道、キリスト敎、浄土真宗の法話があった。それより以前からの聞法から考えると、三十年間も法話を聞いたが聞き開くことができなかった〈42〉。
その後ペタルマに帰ってから、錦織夫妻同行と出会い、聞法が進んできたのである。錦織夫妻同行は収容時代に平林開教使の縁で獲信した。最初出会った時は錦織が口下手な人間だったせいもあり、理解できず自分の信仰の方が立派だという自負があり、聞く耳を持たなかった。高慢であったと山本はいう。錦織を何も語らず六年に歳月が過ぎた。ペタルマで法義が盛んになって錦織夫妻は毎晩のように信仰座談をしていた。錦織夫妻が日本に帰る頃になってやっと、山本は、この夫妻からもっと話を聞かせてもらいたいと思うようになったのである。
錦織夫妻に分かるのに自分に分からぬはずはないと考え始めた途端に、一日中、仏法のことが頭から離れなってきた。仕事にも身が入らず、夢遊病のように一日を過ごした。それでも自分は欲で仕事をしているが、錦織夫妻は帰る仕度もせずに法義を説いている。そのことを考慮した時、今まで高慢な気持ちでいたことを反省させられた。錦織夫妻こそは仏の使いだ、と思った瞬間、不可思議なことが起こった。部屋全体が光明で輝き、大きな仏が出現した。天地が明るくなり、ああこれが獲信か、と山本は思ったのである〈43〉。その日は大きな喜びに包まれたが、この喜びがいつまで続くのかと不安にもなってきた。錦織夫妻に早く聞いてもらおうと山本は急いだ。
山本「それですよ。宴会のあとで二階で夫婦に向って今朝からの不思議な体験を話しますと、ほめて呉れると思ったのに二人とも顔を見合わせて、しばらく返事をせぬでしょう。おかしいなと考えていると、やがて重い口を開いて、あなたは好い所まで出られたが、それだけではいかんのじゃ、それは二十願の頂上で、今一つ先きがある―といって、実はな、それは仏敵というものじゃ、あなたを欺まそうとして悪魔が欺ましているのじゃ、あなたと同じ体験のことを書いた著書があるから、わたしがアメリカを去る土産にそれをあなたに進呈する。だが現在は読みなさるな、本当の信に抜けてから読まぬと心の傷を受けます、といって先生の著書を手交して呉れたのです。私は真蒼になりましたね、これが仏敵だとすると、本当のものは、どんなことだろうと考え込みました」 (『アメリカ同行順礼記』九三頁)
山本はこの体験こそ獲信だと思いたかったので、錦織の指摘に驚いた。錦織はそれはまだ二十願の心境であると言うのである。この時に『仏敵』を受け取る。錦織夫妻は日本帰国する別れの時、手を取り、善知識を紹介するから、決して諦めてくれるな、と涙した。
それから二、三日後に、錦織が紹介してくれた平林開教使に示談を頼む。山本は自性が出て威張っていたが、四時間くらい叱責や説得を受けた。いよいよ後生が自分に迫って考え込んだが、平林が先はどうか、どうするのか、というのでうるさく感じてられてきた。善知識である平林に
先生、あなたはウルサイですよ、私が一生懸命に考えようとするのに、あなたがグズグズいうから考えられはしない (『アメリカ同行順礼記』九五頁)
と、大声で叱りつけた。すると平林は席を立ち、
ああそうか、君が考えて行ける後生ならば、気が滅入るまで考え給え、私は知らんでな (『アメリカ同行順礼記』九五頁)
と言い残して去った。この言葉が山本には堪えた。自性の高慢さが出てきて、錦織が紹介してくれた善き知識・平林に怒鳴ってしまったのである。自分の根性が浅ましくて、次に平林が部屋に入った時には、一切の法に頭を下げ切っていた。自身を逆法の遺体だと受け止めたのである。山本の獲信はこの時だったという。
以上、山本の獲信体験をみてきた。アメリカは日本と違い、仏縁が少ない中で必死に法を求める様が窺える。また、善知識を紹介した錦織にも、情が深く、懇切丁寧に導こうとする様が窺える。
伊藤が直接導いた人々ではない、遠いアメリカで求道した人々をインタビューした、貴重な記録である。この書の中でも伊藤の視点は自力と他力の廃立に立脚している。山本が不思議な体験(大きな仏が出現という出来事)をし、それを獲信と思い込んだという話を聞いた時、「現れた仏は化仏証誠だが、それを獲信と受けた所に自力が潜んでいます。知識の指導が無く独り合点の人に多いのです。そうした信は若存若亡で自然消滅します」と伊藤は答えている〈44〉。『安心調べ』と同様に、他者の信心について自他力廃立の視点から見ていたことが窺える。