第四章 第三節 ジャーナリストとしての伊藤康善
第一項 ジャーナリストとしての活躍
伊藤には、僧侶という側面と仏教ジャーナリストという側面がある。まず伊藤が執筆、あるいは編集した主な書籍をここに挙げる。
1、伊藤自身の体験記
・『仏敵』・・・伊藤が実際に体験した求道の道のりを記録したもの。
・『善き知識を求めて』・・・『仏敵』の続編にあたり、伊藤の獲信後の悩みが記してある。法論によって伊藤の教学理解が確立されていく様子も書かれている。
2、伊藤の下で求道した人々の体験記
・『華光出佛』『死を凝視して』・・・主に結核患者の体験記が収録されており、死を目前にした人物がどのように求道したかが記されている。
・『我らの求道時代』・・・伊藤との対談形式で、華光会同人の求道体験が語られている。
3、伊藤が他者の求道についてインタビューしたもの
・『我が信仰勝進軍』・・・ハワイ在住で浄土真宗大谷派僧侶であった大城秀賢と伊藤の対談。大城が求道体験記を語る。
・『アメリカ同行順礼記』・・・伊藤がインタビュアーとなり、アメリカ在住の同行達にその信仰体験を取材し記録したもの。
4、伊藤が他者の信心を批評したもの
・『安心調べ』・・・当時の著名文化人などを批評したもの。伊藤が重視した「自力と他力の廃立」を立脚点として、各人の信心について論じている。
伊藤は他にも多数の著作を残した。
では次に、なぜ伊藤がジャーナリストを目指す決心をしたのかを検証する。次の文章にそのきっかけとなった出来事が記されている〈31〉。
大正十年、仏教大学―龍谷大学の前身を卒業した時に私の将来の進路について三つのコースが与えられていた。一つは仏大の研究科に籍を置いて仏教学乃至真宗学の学者として立つ道、一つは台湾の中学校の教師をして教育者として立つ道、それから今一つはアメリカの開教使として外国伝道に乗り出す道であった。
今日とは比較にならぬ位に世の中も好景気な時代であったし、何れの道を選ぶにしても三ヶ年位の雌伏する心意ならば将来にも明るい見通しがついていた。私のためにこの三つの道を示してくれたのは多分深浦正文先生であろうと思う。此の先生とは隣寺のよしみで私の身辺の事情をよく知っていたし小学校時代に教えてもらった関係もあるからである。
伊藤は一九二一年に仏教大学(龍谷大学の前身)を卒業した。その先の進路を決定したのは、隣寺であった深浦正文の助言によるものであった。深浦には、小学校時に学んだというつながりがあった。進路には三つの候補があったが、当時の日本は経済的に好調な時期であり、いずれを選択しても三年間ほど真面目に努力すれば将来が保障されていた。その三つの選択肢をあげる。
1、仏教学もしくは真宗学の学者
2、台湾の中学教師
3、アメリカ開教使
1と3の道を選ぶには、宗派を興正派から本願寺派に変える必要があった。また1の学者の道について、伊藤は当時の仏大学者の貧困さをよく知っていたので、選ぶ気持ちになれなかった。興味があったのは、3のアメリカ開教使になることであったという。太平洋を越えて他国へ行くのに心惹かれたこと、そして初任給が悪くないと聞かされたためであった〈32〉。
しかし、當専寺の跡継ぎの問題があった。伊藤には姉と妹があったが男兄弟は無く、両親を置いていくことも不安であった。また兵役の問題もあり、学校に在籍していたため二十五歳までは延期したが、卒業後は兵役検査を受けなくてはならなかった。
そのように進路に迷っている時期、怪我をして骨折からひどい関節炎になった。医師から、これが結核性のものであれば生涯不具者となると宣告され、不安は増した。
進路を選ぶに当たってこのような不安定な状況であったが、伊藤には一つの夢があった〈33〉。
それよりも私は在学時代から虎の子の様に大切にしていた求道物語の『仏敵』という原稿があった。三回ばかり改訂を加えた五六百枚ばかりの原稿である。その頃の真宗教界には近角常観師の『懺悔録』が有名であった。この著書を賣り広めて近角師は東京で求道会館を建てゝ大きな信仰運動を起しているという噂であった。
東本願寺で有名なこの人と学校を出たばかりの私とは月とすっぽん位の相違だが、しかし『懺悔録』の内容より私の『仏敵』の方がずっと複雑で面白いという自信があった。又東京では暁烏敏氏が『觸光手記』や『歎異鈔講話』を出版して評判になっていた。
伊藤には自分の獲信の記録である『仏敵』を出版したいという大願があった。当時世間で話題になっていた真宗の求道記として近角常観の『懺悔録』 や、暁烏敏の『觸光手記』『歎異鈔講話』があった。しかし伊藤は、これらの書よりも自分の体験記の方が複雑で面白いという自信があった。
前述したが、一九二一年に伊藤は仏教ジャーナリストを目指して東京へ行き、「真宗宣伝協会」(野依秀市会長)に入社する。その後、同協会は『実業之世界』編集局と同じ建物に移り、その事によって伊藤は、『実業之世界』編集局に出入りする著名人らと面識をもった。夏目漱石の高弟である松岡譲など文壇人との交流を持つ。その後伊藤は編集者となり、念願の『真宗の世界』に『仏敵』の連載を始める。
一九二九年、「真宗公論社」主筆となる。これは戦後、興正寺本山の機関紙となった。仏教信仰雑誌『真宗公論』を発行する。また『文化時報』に、『安心調べ』の掲載を始めた。一九三五年四月、『安心調べ』発行、十二月に『仏敵』発行、『善き知識を求めて』発行と、続けざまに仏教本を世に出した。
一九三八年四月、国嶋病院(京都市上京区大宮薬師山)に宗教部が設置される。国嶋は自然良能社設立し、伊藤は雑誌『良能』を編集する。一九四一年には『悟痰録』、『春風吹かば』を編集・発行する。
一九四二年四月、華光会の前身である「華光社」を創立。一九五二年八月、 『死を凝視して』編著。一九六一年四月、『アメリカ同行順礼紀』を発行する。
伊藤の書籍に共通していえることは、あくまでも個人の体験記が中心であり、難解な仏教用語はなるべく避けられていることである。その布教内容と合わせて鑑みるに、何よりも自力と他力の廃立を大事にし、求道者の手引きの本となることを目指したのだと考えられる。
次に、伊藤の思想をより詳しく知るため、その戦争観について検討しておく。伊藤は一八九七年で生まれであるので、一九一四年から一九一八年の第一次世界大戦の時期に高校生であり、第二次世界大戦(一九三九~一九四五年)の時期は四十代であり僧侶として充実した時期を送っていた。伊藤は幼少の頃から天皇を中心とした国家主義の教育を受けてきたわけであるが、日本の体制には非常に冷静な視点を持っていた。伊藤自身には兵役の経験は無かった。しかし、大東亜戦が開始され、日本軍のマレー作戦が進行中に中将校軍人に仏法の相談を受けたことから、国体学を勉強し始めたのである〈34〉。以下、伊藤は当時の日本の現状を歴史より分析する。
当時の軍部は、仏教まで神道化しょうとして、いろいろな手心を加えていたときで、私は東西本願寺の中堅学僧たちとその対策に苦慮したころで、国体信仰には注目していた。五・一五事件、二・二六事件ごろから、青年将校の提唱する日本主義が、テロ行為によって日本の朝野をあげて軍国主義となし、ついに日本を今日の破局状態に陥れたのである。 (『死を凝視して』三一頁)
伊藤は、軍部が仏教を神道化しようとしていたので、その対策のため、東西本願寺の中堅学僧達とともに苦労していたという。伊藤は当時の国体信仰が日本を破局状態にしたと考えていた。
いったい日本の神道は、日本の固有信仰というものゝ、元来が自然崇拝の多神教に属する土俗信仰である。仏教は、三千年近くアジア大陸の民族を教化した世界教である。日本神道を今日まで育てたのは仏教―ことに弘法大師の真言宗のお陰であるが、明治維新の時に全国にあった神宮寺を十万カ所も破壊した。そうして平田流の国学を採用して、天皇を現人神とする一神教にこね上げた。天照大神は皇室の祖先神であるが、これを宇宙神のように持ち上げた。『古事記』は日本の原住民の無邪気な性欲描写からはじまる神話だが、これを神聖な聖典とした。皇祖皇宗の神霊という神懸りの呪文はこゝから始って、それが教育勅語となり軍人勅論の精神となって国民道徳の大本とした。このために日本仏教は猛烈な排斥を受けたのである。 (『死を凝視して』三二~三三頁)
伊藤は日本の神道は元来、自然崇拝の多神教であったのに明治維新の時、神社を十万箇所も破壊し天皇を生きている神としてあがめる一神教につくりかえてしまったという。天照大神を宇宙神にもちあげ、『古事記』を聖典とした。これを中心として教育勅語となり、軍人勅論の精神となり国民道徳となった。そのために日本の仏教は猛烈に迫害を受けたのである。
明治大正時代はまだたいした弊害も無かったが、こゝえアジア大陸の征覇をうかゞう軍部の侵略思想が加わり、神道は武力と一致して、内は政治、教育の実権をにぎって自由思想を弾圧し、外は大陸のアジア民族を剣と砲弾で威圧して、西欧民族と闘うまえにまず同文同種のアジア民族の敵となったのである。日本の皇道思想を盲信すると、どうしてもこの結果になるのはやむをえなかった。だからわれわれ仏教僧侶は、軍部の天皇信仰には同調できなかった。 (『死を凝視して』三三頁)
神道は武力と一致して内は政治、教育の実権をにぎって自由思想を弾圧し、まずは西欧よりも同じ民族のアジアの敵となったのである。だから仏教僧侶は軍部の天皇信仰に同調できなかった。
今次の戦争でも、国民に必勝の信念と軍事の訓練さえあればよいと軍部は宣伝した。高祖皇祖皇宗の神霊、上にあり、天孫降臨の御国なるがゆえに不敗なりと、右翼の偉い人々が叫んだのである。けれどもアメリカの識者は、この戦争の勝敗は物理と数学であると言った。数学や物理といえば、日本人は小学三年生くらいの常識しか持ちあわせていない。 中学時代に幾何や代数を習っても、卒業後二三年もするとケロリと忘れる。目先の勘定は上手で、すぐに感情を色に現わして直接行動に出るが、物事を理性的に考える能力がない。
西洋では数学の講演会があると、入場満員で十五六歳の少年でも高等数学の公式を発見した者もある。「ノド自慢」で鐘一つたゝいてもらったり、「二十の扉」の頓知であさましい笑いを買うような青年たちとは、ちょっと質が違うようである。数学でも微分、積分から、非ユークリッド幾何学を理解しなければ本当でないが、近代兵器のB29号や原子爆弾というものは、分子原子の微分の研究が徹底するところに生れた大きな積分である。竹槍や延べ金細工の伝家の宝刀を握って喜んでいる無邪気な国民が、微積分が理解できぬのは当然であろう。
皇道精神や国体信仰を宗教以上の宗教であるとうぬぼれた先生たちは、小学三年生の数学で今日の量子物理学を笑うようなものである。勅語の精神はまことの一字だとか、荒魂、和魂みそぎなどという低級な理論で、仏教やキリスト教の哲学を批判しようというのも同じことである。 (『死を凝視して』三六頁)
日本はアメリカより大幅に遅れをとっていた、と伊藤は考える。日本は神の国であるから信念と訓練さえあれば勝てると考えていた。しかしアメリカの知識人は戦争の勝敗をきめるのは物理と数学力だといった。日本は小学校三年程度の数学力しかもっていなかった、と伊藤はいう。勝敗をきめたのはB29や原子爆弾であったのだ。近代兵器のB29号や原子爆弾というものは、分子原子の微分の研究が徹底するところに生れた大きな積分であったのだ。
伊藤は戦時中の日本を冷静に分析していた。日本が明らかに勝利できるわけもなく、精神的にも知識的、軍事的にも劣っていたと考えていたのである。