第五章 第一節 第三項 機責め
伊藤に対する批判としてよくあるのが、機責めだということである。これは罪悪観の徹底や信機秘事、信機正因などの異安心との関連も考えられるであろう。ここでは大原性實の『眞宗異義異安心の研究』より、大原の定義する機責めを確認したい。
さて歡喜を強調する異義者は、その歓喜の信一念に到達する過程として、死の恐怖や深刻な罪惡觀を説く。そして罪惡歡に徹底することがなければ、入信は不可能であると強調する。そこでこの罪惡觀を徹底せしむる爲には、一室に入れて沈思冥想せしめ、罪の告白懺悔をせまる等、中には神經衰弱に陥り、或はたまに發狂する者さえ生ずる者もあるという。かくて機の罪惡を衝き、その徹底をせまり、或は地獄の猛火が足下に炎々として燃えつゝあるを凝視すべしとか、或はその地獄の猛火中に如來が泣き叫びつゝ、呼び給う御聲を聞くべし等と教えるという。 (『眞宗異義異安心の研究』二七八頁)
罪悪観の徹底を説く異義者は、信の一念に到達するには、死の恐怖や深刻な罪悪観が必要であるという。徹底させるために一室に閉じ込め、罪の告白懺悔を迫る。その過程で神経衰弱に陥ったり、中には発狂する者も出たという。地獄の猛火が足元に迫る、と教え、その中を阿弥陀仏が涙を流し叫びながら救いにくる声を聞けという。
かくの如き罪惡觀の追及とその徹底は、入信に至る必須の條件であり、過程であって、この關門を透過せざれば入信の曙光を拜するを得ずとて、「松蔭の暗きは月の光かな」の句を引き、暗き松蔭を通してのみ明るき月を見るなりと曲解する。 (『眞宗異義異安心の研究』二七八頁)
「松蔭の暗きは月の光かな」の歌の意味は本来、自己の罪悪が見えてくるのは、月の光=阿弥陀仏の光に照らされているからである、ということである。しかし異義者は、自分の罪悪の徹底を通してのみ阿弥陀仏の光を拝することが出来るという誤った解釈を勧める、と大原はいう。
以上の如く信者をして徹底せる罪悪の意識を堀り下げることと、恐怖觀念を植えつけることとに専心し、行者を苦悶のどん底に陥没せしめ、その「落ち切つたところ」に獲信ありという。こゝに恐怖は歓喜に、罪悪に對する苦悶は法悦に轉換するのであって、その歡喜こそ信心なりと云うのである。 (『眞宗異義異安心の研究』二七九頁)
信者に罪悪の意識を掘り下げさせ、恐怖を植え付け苦悩の底に落し入れて、その落ち切った所で、恐怖は歓喜に変わるという。そして、この歓喜こそが信心である、という。大原はこの異安心について、歓喜正因や地獄秘事とも繋がるものであるという。
次に信機秘事と大原が論じているものも、機責めに共通するところがあるように見える。大原はこのように説明する。
信機自力の異義は、信機づのりの安心、信機秘事、信機正因、機歎き安心等の名稱によって呼ばれているものであつて、功存や崇廊の編集になる『二十邪義』や、寛政年間に編集せられた『二十二種邪義問答』には、歎機邪義としてその名目が擧げられ、殊に後者には水戸の惠明院より出でたりとしてある。水戸の惠明院については不明であるが、徳川の中期に既にこの主張者があり、引き續き現代に及んでいるわけである。大谷派易行院法海の『十八通異安心考』の第十六には「どうも我身は地獄一定と思はれぬ。北國などでは熱い湯へ入り、又寒中に水の中へ入り、さあ熱いかどうじやと云ふ。こふすれば地獄一定と思はるゝと、こう地獄一定ばかりのことを云ふ』と云つているが、罪悪觀の徹底ということばかりに力點を置くと、こういう笑えぬ茶番が出ることがある。
現在行われているものにも、殊に知識人の間にはキリスト教の悔い改め、罪の懺悔等ということの影響もあるのであろうと思われるが、いづれにしても甚だ強く罪悪觀の徹底を叫ぶのである。而してただ口耳三寸の間に、悪人なりと聞き、悪人なりと云うが如き、甘い考方では、とうてい信心は獲られないとて、過去、現在、未来に亘つての罪におのゝくべきことを勸め、その徹底を強要するのである。
而して宗祖が第十八願に入られたのも、正しくこの罪におののき、悪にめざめられたからであつて、これぞ眞實の信機である。この信機ありてこそ、初めて信法の世界に到達せられたので、 これが所謂三願轉入の過程であつたという。而してこういう説き方の根據となり、證権となる文證の一つが、「いづれの行もおよび難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」とある『歎異抄』の文であつて、これは親鸞が地獄へ落ちきられた時の告白である等と述べ、全く祖意を曲解して傳えるのである。 (『眞宗異義異安心の研究』二七九頁)
古くは江戸時代から、機責めに該当する異安心が存在した。大原は、現代の罪悪を強調する異義者については、キリスト教の影響がみられるという。異義者は過去、現在、未来に渡る罪に戦け、親鸞が十八願の世界に入ったのも悪への目覚めがあったからだ、と説く。これらの機責め的な導き方は、根拠を『歎異抄』の「いづれの行もおよび難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」に置くという。親鸞も地獄に落ち切ったから獲信できたというのである。
以上をまとめると、次のようになる。
1、罪悪観の徹底が信の一念へと繋がる
2、三世に渡る罪悪を深く感じることで、求道者は恐怖心を持つ。
3、罪悪観が極まることで、恐怖は歓喜に転換する。
4、その歓喜が他力信心である。
5、この異安心が根拠とするのは、『歎異抄』の「いづれの行もおよび難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」である。
さて、これまで機責めについて述べてきたが、伊藤の善知識としての態度は機責めといえるかどうかを確認したい。伊藤自身、獲信をする前に植島やゑから、次のように言われている〈6〉。
「貴方は、つまりませんぜ! つまりませんぜ!」 その一語でぐッと私は行詰つて終つた。昨夜胸の中へ現はれて来た黒い塊は、息もつまる様な物凄い勢ひで押し迫つて来た。私は蛇に睨まれた鼠の様に身動きも出來なくなつた。
「貴方はつまりませんぜ、貴方はつまりませんぜ!」
これら植島やゑの言葉だけを聞くと、伊藤を罵倒し苛め抜いているかのようにみえる。しかし第三章で見たように、この植島やゑの言葉によって伊藤は、自己の中にある恐ろしい仏敵と向かい合い始めるのである。
第三章でも引用したが、『死を凝視して』において、結核患者の高山に対する伊藤の言葉は厳しい。
「絶えず両親に心配をかけて、父母に孝養していない。深信因果の仏教を疑うて、未来を否定している。この病身を養うためには、動物性たんぱく質が必要だとか何とかいって、スッポンの生血や魚鳥や肝油じゃと、今日まで山ほどの殺生をして来たことを反省しない。この生死の大海に驚いて、一日として懺悔念仏した経験もない。死ぬことも確定的な事実ならば、死んで黒暗地獄へ落ちることも自明の道理だ」〈7〉
この発言は、結核が悪化する危険も顧みずわざわざ伊藤に会いに来た高山を、打ちのめすような言葉である。伊藤はこう解説する。
この時の話は、語気が荒かった。他の人と違って、この青年は数カ月前から求道している。グズグズと遠回わりの道を説く必要がなかった。〈8〉
伊藤は無暗に機を責めているわけではない、相手の求道歴と個性、時機を考慮して、求道者を後生の一大事と対峙させるように語っているのである。
伊藤にとって、罪を観るというのは、罪悪を徹底させる為ではない。仏願の生起本末を聞く、つまり、何故に阿弥陀仏が本願を建てなければならなかったのか、を聞かせてもらうために、我が身を知るのである。そして罪悪および煩悩は、あくまでも阿弥陀仏によって許されているのである。問題にしなくてはならないのは、仏智を疑う疑惑心である、と伊藤は主張している〈9〉。
「罪悪を見つめ無常を取りつめると自然に信心は戴けるのですか」と愚問をはなつた。
「駄目だ! 無常というも罪悪というも決して信心を得るための方便手段ではない。色々な罪悪や無常を見よというのは現実に徹せよということなのだ。そうすれば信心は得られるかということとは話は別だ」
「しかし信心はどうして得られるかと問えば、無常と罪悪の自己を知れと申されるのは、それは手段方法である意味でしょう」
「信心のことは如來のすることで君の思議すべきことでない。君が信心を思議したとしても妄念妄想で空中の楼閣だ。罪悪や無常の現實をいくら信仰に結びつけても無理だ。第一君の頭の中で考える如來や信心という妄念を殺さねばならぬ。それが邪魔している!」
伊藤はこの問答によって、罪悪を見れば信心が得られるわけではない、という。罪悪や無常を見るようにいうのは、仏説に照らして現実に徹していけ、ということなのである。
機責めについては前述したように五項目にまとめられた。確認のため再掲するが、そのいずれも、伊藤の主張とは異なることが分かる。
1、罪悪観の徹底が信の一念へと繋がる
2、三世に渡る罪悪を深く感じることで、求道者は恐怖心を持つ。
3、罪悪観が極まることで、恐怖は歓喜に転換する。
4、その歓喜が他力信心である。
5、この異安心が根拠とするのは、『歎異抄』の「いづれの行もおよび難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」である。
伊藤は飽くまでも、罪悪観とは、信心目当てで自分を罪深いものだと思い込んでいくことではなく、仏説に説かれたあるがままの衆生の姿を見ていくことだという。阿弥陀仏が救済の願を建てざるを得なかった理由である自己の罪悪を知れ、というのである。つまり、その凡夫を救いの対象として建てられたのが阿弥陀仏の本願であり、伊藤は、仏の目から見た自己の姿をありのままに見よと勧めている。罪悪観は獲信するための手段ではない、ということである。