第五章 第一節 第五項 伊藤の善知識としての姿勢
そもそも善知識の役割というものを、伊藤はどう考えていたのであろうか。華光叢書の一つである、高森顕徹の『化城を突破して』の中で、善知識についての高森を含む同行達と伊藤の対話がある。
高森「先生、桐さんの告白を聞いた古い同行達がかう云ふのです。眞宗では善知識の教化が大切である。宿善、善知識、光明、信心、名號と此の五重の義がなければ往生かなふべからずとあるではないかと云ふのです」
伊藤「當流は教巻相承の教で、釋尊より七高祖を通じて親鸞聖人に大成された教を實語相承するものだ。善知識が尊いのは、その人尊からずして佛説を相承する意味に於て尊い。善知識の人柄を特に強調するのは秘事法門に多いね。善知識のはたらきといふのは一念歸命を勸むるばかりで、知識が淨土を持つてゐるのでなければ信心を與へるのでもない、まあ云へば子供を生む産婆の役目、或は屋根から下りる梯子の役目のやうなものだらう」 (『化城を突破して』四三頁)
秘事法門は善知識の人柄などをわざと強調する。一方の伊藤は、善知識が尊いのではなく、佛説を相承しているから尊いのであるという。善知識のはたらきは一念歸命を勧めるだけだという理由から、崇められたり、祭りあげられることを伊藤は嫌っていた。
藤「桐さんの場合のやうに全然善知識の無い場合はどうなるのです」
伊藤「お話を聞けば全然無いとは云へない。高森君や奥さんの喜びが直接の影響がある。『佛敵』の本も知識の役目をして呉れる。殊に蓮如上人の御文章が強い權威を持つて迫つてゐる。與へるばかりが知識の能ではない、奪ふ者も亦知識だ。高祖は『まことに勸め既に恒沙の勸めなれば信また恒沙の信なり』と仰せられて、小さい時から親から正信偈を習つたり、坊さんから面白い説教を聞かされたりした事が、何れも知識の役目を果して此の幸せをされた」 (『化城を突破して』四三~四四頁)
桐という同行は、獲信時に直接善知識の言葉をもらわないままに、信の体験を得た。この件について伊藤は、周りの同行の喜びや『仏敵』、そして御文章や正信偈、聞いてきた説教も全て善知識といえるという。善知識とは、僧侶や同行など人格に限らず、様々な縁を善知識といえるのだ、と伊藤はいうのである。
高森「でも覺如上人は『執持鈔』に、善知識の言葉のしたに歸命の一念を發得せば、その時をもつて娑婆のをはり臨終とおもふべし、と仰せられてゐるではありませんか」
伊藤「勿論獲信する人の大多數は此の執持鈔に示されてゐるやうに、佛説を實語相承する善知識の言葉に同心して獲信する。一念の信を知らせて呉れた知識が特になつかしいのは此のためだ。併しここで娑婆の終り臨終と思ふべしの一句に想倒しなければならぬ。久遠の自力の迷心を斷切られて謗法の死骸を大悲のふところに投げ出す非常突破の世界がある。ここでは善知識を乗り越え踏み越えて佛説の内容に深入りする。最早人間としての知識には、はしにも棒にもかゝらぬ所、如來直接の説法がかゝる所だ。『勸無量壽經』の第七華座觀では釋尊が韋提希夫人に向つて除苦惱法―汝のために苦惱を除く法を説くぞと云つた切り默つて御座る、あれだな。教へる役目に立つ者はあの説法の約束を守らねばならぬ」 (『化城を突破して』四四頁)
高森は『執持鈔』の文章を持ち出して、やはり善知識がいて、その言葉に従って獲信するのではないか、とさらに伊藤に問う。伊藤は、確かに大多数はそうであるが、ここではその文の後半部分である「その時をもつて娑婆のをはり臨終とおもふべし」を大事にしなければならないという。ここにおいて、求道者は善知識を踏み越えなくてはならない、と伊藤はいう。人間である善知識の言葉を遠く離れ、阿弥陀仏によって自力を断ち切られなくてはならないという。そこでは最早善知識は関係なく、それは『観無量寿経』の第七華座観での釋尊のように黙るべきだという。そこは求道者と弥陀が向き合うべきところであり、善知識はそれ以上手出しをしてはいけないというのである。
とくに伊藤は、獲信かと思われる体験をした求道者にたいして、印可を出すことの恐ろしさをよく心得ていた。以下は『アメリカ同行順礼記』において、伊藤が印可について述べている箇所である。由上正道は、アメリカ、ハワイで開教使をしながら、求道を続けていた。ハワイにおいて、『仏敵』を読み感銘を受け、伊藤に会うために帰国し、示談を受けた。ついに由上が廻心体験を持ったとき、伊藤は何も言わずに帰ってしまったのであった。
伊藤「私は先生と別れた切り、善いとも悪いとも何とも云わなかったですが、それにはこの種の信仰体験の事実には幾十人も接した結果、知識の印可は罪悪なりと知っているからです。僧は在家の方と違って信を説けば、千人の人々に影響する。信を得たと思うても二三年の様子を見なくては嘘とも真実ともいい切れない。うっかり君は獲信したとでもいえば、その言葉をにぎる善知識だのみになりますからね。在家の同行がいいのわるいのと批評するのは勝手だが、我々は如来聖人の弟子として聖教の所判になきくせ法門をのべてはならぬ。先生はふたたび聖教を拝読されるであろう。そのうえで自然に会得されるまで、すてて置かうと思った。だいたい同行知識とは産婆さんの役目ですからね。産婆さんが赤ん坊を産む仕事に手伝えば、養育することや教育することは釈迦弥陀二尊の仕事です。だいたい、弥陀には弥陀の仕事あり、聞法者には凡夫としての仕事あり、同行知識はその中間にたつ仕事あり、その立場を忘れて脱線しては諸仏はにげて行かれます」 (『アメリカ同行順礼記』二一二~二一三頁)
伊藤は、知識の印可は罪悪である、という。信を得たといっても二、三年様子を見なくては、良し悪しの判断はできないという。同行が何を言っても問題はないが、僧侶がそれを言うと千人もの人々に後々影響するというのである。善知識がよし、といった言葉だけを握りしめ、善知識だのみになることがあるというのである。求道者を次々生まで迷わす可能性のある印可に対して、伊藤は細心の注意を払っていたのである。
続いて、善知識としてどう生きるか、由上の問いに伊藤が答える。
「日本で法を求めてから七、八年になりますが、おかげさまでホノルル市の方でも、このカワイ島でもわたくしを縁とする獲信者が年々増していきます。先生を召請したのも、そうした一味の同行の寄付金で出来たのですが、わたくしに余命がありとすれば、どんな方法がよいでしょうかね」 (『アメリカ同行順礼記』二一三頁)
由上が伊藤を縁に獲信し、ハワイで布教を続けたことで、ホノルル、カワイ島でも獲信者が増え続けたようである。その同行達の寄付があったからこそ、伊藤はアメリカを布教旅行することができたのである。これからの布教に助言を求める由上への回答に、伊藤の念仏者としての志、善知識のあり方と人柄がよく表れている。
「わたくしはその実績がないから説く資格もありませんが、同行を多く集めて善知識の坐に座ることだけは危険ですな‥‥同行の腹も自分の信も買い被ってはなりません。釈迦弥陀は慈悲の父母というが私達の父は釈尊ですな。阿合経典を熟読して釈尊の生活に学ぶことですな。衣食住の三つでも釋尊は一日三合くらい牛乳で暮らして居られます。衣はもちろん三衣一鉢だ。住所は一日家に泊まると一日は野宿しておられます。祇園精舎も竹林精舎もあったのに、最後は尼連禅河のほとりで伝道の旅で淋しい臨終を迎えて居られます。
この仏弟子をもって任ずる者が金や女や寺院に迷うては物笑いですよ。僧は人に法が説けなくとも、布施餓鬼や法要餓鬼にならぬことですな。釈尊の仏教を小乗の聖道門の難行道のと軽蔑する奴等は浄土易行門も知らぬ者の寝語です。
まあ、私達は生涯の求道ですな。この道は竜華三会の暁までつづくのだから、今生は自分の業にまかせて牛のようにのろのろと歩きましょうか。苦しくなれば飴のようなよだれを流して、なんども一つごとをかみしめて大きな睾丸をお尻にぶらぶら垂らして行きましょうか。はっはっは。禅に十牛図がありますね。見牛、得牛、失牛といった風な十段の階梯があります。念佛者の歩みもあのとおりですな。」 (『アメリカ同行順礼記』二一三~二一四頁)
伊藤の言葉より、善知識としての守るべき態度をまとめると、次の五項目となる。
1、決して我が身を誇って同行を集めて善知識の座に座らぬこと。
2、同行の信も自らの信も決して買い被ってはならない。
3、釈迦は衆生の父母であるので、私達は釈尊の生き方に学ばなくてはならない。生活は阿含経を熟読して学ぶこと。清貧であられた釈尊の生涯に従い、間違っても女や寺院に迷ってはいけない。
4、たとえ法が説けない僧侶であっても、布施餓鬼、法要餓鬼とならぬこと。
5、生涯は求道であり、竜下三会まで、つまり弥勒菩薩がこの世に出られて仏となられる時まで続くのだから、後生の一大事一つを聞かせてもらい、業にまかせてゆっくりすすむべし。
これらの記述より、伊藤が善知識として崇められることの危険を案じ、その座に甘んじて生涯を送ることを嫌い、自らを戒めていたのである。伊藤を知る多くの同行は、一風変わった個性的な人物であったと語る。しかし内実には、信心の行者として、厳しく自己を戒める信条を持っていたことが窺える。いわゆる善知識だのみとは、かけ離れた人物であった。