第五章 第二節 第三項 羽栗行道の廻心と獲信への導き
羽栗行道(一八八一~一九六五)は京都市下京区蓮光寺の住職であり、北米開教使として一九〇八年から約十五年間アメリカでも布教活動を行った。アメリカで多くの同行を信に導き入れており、与えた影響は大きい。蓮光寺では松影会という集いで信仰活動をしており、伊藤と羽栗は交友があった。伊藤康善は『安心調べ』においても羽栗を取り上げている。『アメリカ同行順礼記』には羽栗が序文を書いており、伊藤が羽栗と対談している文章も収録されている。また華光会館が完成してから、羽栗が華光会で法話をするなどのつながりがあった。本論ではとくに羽栗の求道と廻心、そして伊藤との教学理解の違いに注目したい。
まずは羽栗の獲信の体験をみていく。『アメリカ同行順礼記』において羽栗は『北米開教時代の思い出』の章で伊藤と対談しつつ自身の体験記を語っている。
羽栗行道は一九〇八年にアメリカに渡り十五年間布教をした。当時は二十八歳であり、龍谷大学を卒業したのち、薗田学長の推薦で北米開教使となったのである。羽栗は最初はサンフランシスコの開教本部に勤め、次にガタロップの農業地帯へ赴任した。当時の様子を羽栗はこのように語る。
羽栗「私の行ったころは草分けの開拓時代で日本人は日雇い労働者で、キャンプ生活をしておりました。主に砂糖大根を作るのだが気の荒い青年は働いた賃銀を酒と博奕で使ひ果すのです。バクチなんかは芽の出るときもあるが結局裸になりますからね。これはバクチ場を開く奴が悪いので、その撲滅運動に乗り出しました。私は開教使であると共に日本人会の幹事をしていましたから夜間に賭場の入口で頑張って青年の出入りを止めるのです。すると横合から空鉄砲を放ってビックリさせよる。家へ帰ると戸に大石を叩きつけて、留守番の妻に嫌がらせをする。あっははは、エライ苦労したものですよ。そい奴を法廷に訴えて浮浪者を農場から追放したこともあります」 (『アメリカ同行順礼記』一三七頁)
羽栗は布教だけでなく、様々な苦労を重ねた。日本人会の幹事をしていたので、当時の出稼ぎの若い青年が博打で金を無くすものが多かったため、嫌がらせを受けながらも、博打の撲滅運動をしたのである。
それからオークランドに移ったが、古くからアメリカに住んでいる日系人との間で揉め事があった。疲労困憊していたある日、自分に肝心の信心の喜びが無くなっていることに気づいた。
羽栗「はっははは、結局そうですよ。ふと自分に気付いてみると今までの信心が何処かへ行って仕舞っている。幸福の青い鳥が逃げたようなものだ。念仏してみても砂を噛むように味がない。仏前に合掌して読経してもありがたくない。仏教東漸の捨石としてアメリカ伝道を志願した当時の明るい信心がない。」(『アメリカ同行順礼記』一三九~一四一頁)
羽栗はアメリカ伝道を志願したことには、伝道のために全てを捧げようという信念と明るい信心があったのに、どこかへいってしまった、と愕然とするのであった。
伊藤「大低の僧侶もその煩悶期があるが、突込み方が浅い。先生の場合は何しろアメリカ大陸という相談する相手もいない寂しい所ですからね―」
羽栗「そうですよ、日本は人も多く環境も変化するから自己を誤魔化し易いが、大陸と来ては絶対に独生独死ですからね。教会には妻も居り子も生れたが、私の心の底にポカリと開いた無劫の寂しさは全く孤独地獄へ落ちた様なものだ。何とかして以前のように喜びたい、ほれゞゝと念仏し、しみゞゝとありがたくなりたいと思うが、どうにもならぬ。幸に日本から近角常観師の『求道』という信仰誌を三十冊ばかり心の友として持参していたので一心に読み返しました。一章読む間に心にピンと響かぬか、一冊読む間に学生時代のような純情な喜びが涌かないかと期待するが、焦れば焦るほど一方では頑として聞かぬ心がいる。 (『アメリカ同行順礼記』一四〇頁)
羽栗はアメリカで相談する相手もおらず、苦しんだ。以前のように有難くなりたい、喜びたいと思うがどうにもならない。近角常観の『求道』という雑誌を三十冊ほど持っており、それら読むことで心境が変わらないかと期待したが、心に何も変化は起きなかった。
これは近角師のものでは駄目だ、直接祖師に聞こうと思って、和讃の一首づつから、カナ聖教の文々句々、教行信証の本文を注意深く拝読してみる、これも読む間は意味が解ったようでもあとになると他力廻向の心が霞がかゝつたようになる。これが味わえぬとせば開教使たる資格すらもない、資格はどうでも良いが、私は一たい何のために渡米してきたのであろうということまで苦になって来ましてね、ぐわゝゝとした不安が毎日続きます。元気で極楽とんぼの日暮をして、アメリカの古狸共と喧嘩していた私も、身体は次第に痩せて、毎日午後になるとぼーつと微熱が出る。
いよゝゝ最後の死の使が来たかと思うと、堪らぬほど怖いので一心に聖教に齧りつく。六七カ月もこんな状態が続くと坐って読めないので、ソーファーで寝ながら拝読しました。それが到頭八カ月も続いて生きた廃人のようになりました。
最後は求道に疲れ果てゝ、読んでも読んでも解らぬし、喜びたい信心を戴きたいと念じても、どうにもこうにもなれぬし、―このどうもこうもなれぬ奴がお前の自性ではないか、私の本性はたとえ八角の糞をこいて千万里走り廻っても喜べぬ奴じゃないかと気付かせて貰った時、パアツ―と心境が開けて私の心に要のない手放れの信だと気付きました」 (『アメリカ同行順礼記』一四一頁)
近角の著述を読んでも信仰が開けて来ない。親鸞の聖教を注意深く読むが、他力廻向については心に靄がかかる。体調も悪くなって痩せ、午後になると熱が出る。死の迎えが来るかと思うと、いよいよ恐ろしい。生きた廃人のようになって八ヶ月が過ぎ、ついに疲れ果てたときに変化が起こった。どうにもならないのが自分の自性であり、喜べるような自分ではないと気付いてから、心境が開けてきたのであった。それに対して伊藤はこのように語った。
先生の結論だけ聞けば高壇上の布教使と変わらぬが、八ヶ月も聖教を命の的として拝読されたのが、尊いですな。あの寂しい大陸でその陣痛の生みの苦しみがあればこそ、北米仏教界に大きな足跡を残されたのですね。(『アメリカ同行順礼記』一四一頁)
伊藤は大陸で一人孤独の中、聖教と向き合ったことで羽栗に廻向がおとずれたといい、またその体験があったからこそ、米国で活躍できたのだという。このようにして他力信心を得てから、アメリカにおける羽栗の活躍が始まった。
羽栗「その信仰上の一転期があってから仏教会の聖堂に立つ私の気持が変りましたね。オークランドには日本人が七千人も居るのに日曜の礼拝に来るのは僅に五六人です。アメリカ人などは列をなして教会に集まる。無宗教な日本国民の恥曝しだと怒っていましたが、私の腹底を探ってみると、一たいアメリカへ来た動機は何か、めずらしい外国風景や人情を見ることゝ月給を貰えば一弗が二円になるのですから日本に送ると親も喜ぶ、心から布教伝道したくば日本の方が便利です。
彼等も同じことだ。金持ちの師弟なんかはアメリカまで労働に来ない。やはり貧しい郷里の父母や妻子に金を送りたいので一生懸命働いている。日曜は身体を休める日で寺参りなどはせぬ。その中で五六人の者でも来るのはよほど仏縁の深い人で、その人々を軽蔑する理由はないと知って、説教のあとで茶や菓子を出して私の体験を中心に話をした。 (『アメリカ同行順礼記』一四二~一四三頁)
羽栗は布教を始めた頃は、アメリカ人は教会に行く人が多いのに日本人は寺院に参る人が少ないことに対して、強く憤慨していた。しかし、出稼ぎ者の多くが貧しい家庭に送金する為に必死で働いており、疲労のせいで土日は休まざるを得ないのだと理解するようになった。それからは、彼等を軽蔑せず、寺でも茶や菓子を出してもてなすようになった。そして羽栗自身の信仰体験を中心に法を説くようになったという。相手の立場を理解し、尊厳をもって日系人に接するようになったことは大きな変化といえよう。
その後羽栗は、具体的な信仰体験談を中心にすることで求道者を増やしていった。その人特有の個人の悩みを捉えて、罪悪の実体を説く、という説法を行った。よってその導き方は、一対一での示談形式が中心となった。そのようにして獲信の体験をする者が増えていき、週末には四、五十人の人が集まるようになった。
アメリカ布教において羽栗は、ガタロップ、アラメダ、バークレーで仏教寺院を起こした。その後、フレズノに赴任した。檀家が多いばかりで獲信者のいない当時のフレズノに困惑し、羽栗は何とか対策を考えた。そして、オークランドにいた信心深い家族をフレズノに移住させることを考え、実行した。それによって求道の糸口を作り、信仰活動を盛んにしたのである。一九二三年、羽栗は持病の胃下垂のため日本に帰国し、十五年間のアメリカ布教生活を終えた。
次に、羽栗の教義理解はどのようなものだったのであろうか。羽栗は以下のように、罪悪が要点だと語っている〈35〉。
私は一體罪惡といふ事を喧しくいふといふので、時々は人様に嫌な思ひをさせます事がある樣ですが、此の私の本燃の本能心に目覺めさせて戴くといふ事が、抑も身心安楽の根底とならして貰ふのでありまして、私自身にとりましては隨分思ひ切つた罪惡の事實を摘発しますが、それが唯の罪惡ではない、如來本願の御目宛の罪惡、攝取光中の超過天人の罪惡を語つてゐるので、私自身には罪惡を談ずる事が即ち歡喜の聲なのであります。
このように罪悪観を強く勧める点が特徴的であり、他力信心についても、罪悪の面から次のように説明している〈36〉。
罪を罪と知つてもその罪を止めることが出來ない所が佛様のやるせない御救濟の働いて下さる所である。そうした動きのとれない、して見様もない者が殊に哀であると、御同情下さるのが佛様のお慈悲である。そのお慈悲をそうした有難い同情の御涙だと眺めてゐるのは、まだ信仰ではない、眞の信仰は自分のして見様のない有様に泣き悲しんでゐて、一歩も動きのとれぬ苦しい心中に、始めてその佛様の同情の御涙で、そのまゝ安心させて貰ふて、今まで氣にかゝつてゐた罪も障も悉くそのまゝ喜びに變るのである、
つまり、罪を罪と知りながらも止められずに泣き悲しむところに、その罪悪を目当とする阿弥陀仏の救済が働くのだという。
このような羽栗の教えは、自力疑心を最も問題視する伊藤とは大きく異なるように見える。伊藤自身もそのことを自覚しており、羽栗と交流のあった伊藤であるが、『安心調べ』においてはその安心を批判している。
羽栗行道の著作『大地をふまへて』といふ著書がある。そこには罪惡觀が強調されてゐる。
「仏の慈悲とは何であるか。罪惡の救濟でないか、苦惱に對する同情でないか。信仰とは何であるか? 矢張り罪惡の救濟である。如來の慈悲を仰ぎ信ずるのでないか。眞理は最も單純であつて明かである。外に何者も説くことはいらぬ。徹底するまで人間それ自身の苦惱と罪惡を知らしめたれば、聞くものは自から佛陀救濟の慈悲を仰ぎ信ずる様になるのである」云々
成るほどこれが眞理なら、甚だ單純明朗で、貧弱で空虚で場末のキリスト教界などでは、時々學校上りの牧師さんが黄色い聲を張りあげて叫んでゐられるのと同一だが、羽栗氏も矢張りお寺の坊さんだから抹香臭い佛語を時々使ふ。 (『安心調べ』二七九頁)
羽栗は仏の慈悲とは衆生の罪悪を救うことであるとし、罪悪の救済さえ説けば他は何も必要ないという。衆生は自身の苦悩と罪悪を知れば、おのずから阿弥陀仏を信じるようになるという。これに対して、伊藤はそれでは救済の内容がキリスト教と変わらないと批判し、罪悪観を何よりも重視する羽栗の説に反論する。
亦罪惡ばかり説いてゐては、どこまで罪惡に徹したのが信一念か譯が解らない。一念の時に罪惡が頓滅するのならば良く解るが、信後でも煩惱妄念は一寸も變らぬのだから念持の義相が立たぬ。 (『安心調べ』二八五頁)
伊藤はどこまで罪悪観に徹したのが信の一念なのかわからない、という。阿弥陀仏が罪悪を救うのであれば、信の一念の時に罪悪も消滅するはずであるが、衆生の罪悪は息の絶えるまで続くのであるから救いが成立しないというのである。
人間の煩惱は生涯あるのだから、絶えず懺悔せねばならぬ。信心も五度も六度も戴くといふ滑稽な同行が出來るのも此のためだ。 (『安心調べ』二八六頁)
衆生は常に煩悩があるのだから、常に懺悔しなければならないことになる。獲信が五度も六度も存在するのはおかしいと伊藤はいう。
眞宗では、かゝる「罪の沙汰は無益なり」と云ふのが蓮師以來の定りになつてゐる。さうして信心は善惡相対で語るべきものでなく、信疑廃立で示すと云ふのが高祖の信巻に示された精神であり「改邪鈔」、「御文章」がさうである。信巻の三心釋を見ると、如來の三信と衆生の三心とを比較研究して、如何にも罪惡觀の深まつたのが信仰のやうに説いてあるが、これを歸結する御文は「疑蓋まじることなし」と九ヶ所も同じ文を出して信疑廃立で結んである。 (『安心調べ』二八六頁)
伊藤は真宗では、蓮如が言うように「罪の沙汰は無益なり」だという。伊藤の言う通り、『蓮如上人御一代記聞書』には、
罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取たるか取ざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。 (『聖典全書』五、五三七頁)
と、罪悪の沙汰よりも信心の沙汰を優先するべきだと教えられている。
また伊藤は、信心は信疑廃立で示すのが真宗の伝統であるという。三心釈に「疑蓋まじることなし」と九ヶ所も示してあることを根拠に、問題にすべきは罪悪よりも疑心であると伊藤はいうのである。さらに伊藤は解説を続け、
信疑廃立だと經文も通じ、眞理にも合し現實にも體驗出來る。即ち善導の深信は疑が晴れたから、曠劫流轉の信機が知れたのであり、彌勒菩薩も、三世諸仏も、化土往生人も、疑のある間は彌陀本願が解らず、報土往生も出來ず、華光出佛の佛ともなれないのである。 (『安心調べ』二八六頁)
と、疑心について詳説する。善導は疑心が晴れたからこそ成仏できたのだという。彌勒菩薩、三世諸仏、化土往生人に煩悩はないけれども、仏智に対する疑いが晴れなければ成仏できない、と伊藤はいう。
實際問題としても、「松蔭の暗きは月の光りなり」を考ふれば、松蔭の暗い罪惡が問題でもなければ、本願の月光が問題になるのでもない。月光を障碍してゐる疑惑の雲が問題なのだ。本有の煩惱を指して罪惡觀と云ふのは大間違で、それはお目當の機である。罪惡と稱するのは、自力迷情であり本願疑惑であり定散疑心である。 (『安心調べ』二八六頁)
羽栗は松影会という集いをつくっていた。羽栗が問題としたのは、松影の暗さ、すなわち煩悩心によって作られる罪悪であろう。伊藤は罪悪が問題なのではなく、月光を遮る疑惑の雲こそが問題であるというのである。これは『仏智疑惑和讃』に、
仏智疑う罪深し
この心思い知るならば
悔ゆる心をむねとして
仏智の不思議を頼むべし (『聖典全書』二、五一〇頁)
とあるように、親鸞が疑心の罪深さを強調し、仏智の不思議を頼むべきであると説く点と合致する。
以上、伊藤の羽栗への批判を見ると、二人の異なる点が歴然とする。羽栗は罪悪を何よりも重視し、罪悪観を徹底することでおのずと阿弥陀仏に対する信心が生まれるという。そこに自力疑心を問題にしていない。一方の伊藤は、罪悪観をいくら極めても信に入れるわけではない、という。あくまでも信の一念の時に消滅するのは疑惑心だというのである。