第五章 第二節 近代の布教者に見る伊藤康善との比較
第一項 近角常観の廻心と獲信への導き
この節においては近角常観(一八七〇~一九四一)の求道と獲信の体験、そして、彼の布教活動に注目したい。伊藤は、近角とは直接の面識は無かったようだが、当時の真宗会で『懺悔録』を出して注目を浴び、求道会館を建て活躍していた近角に注目していた。伊藤の著である『安心調べ』にも近角は取り上げられている。
伊藤は無名ながら、同じように信仰体験記『仏敵』を発表し、伊藤を中心に華光会という団体が設立され、華光会館も建築された。そこで、伊藤と近角を比較し、相違点を見ていきたい。
近角常観は、一八七〇年五月二十四日、近江国浅井郡延勝寺村(現在の滋賀県長浜市湖北町延勝寺)に近角家の長男として生まれた。東京は本郷において求道会館を建て、『政教時報』『求道』などの信仰誌を創刊して真宗信仰を広めた人物である。父親は、真宗大谷派西源寺の第十二代住職である近角常随である。以下、岩田文昭『近代仏教と青年』より参照する〈17〉。
常観が三歳の時、生みの母親が三十三歳で死亡。後に常随は、継母として雪枝を迎える。常觀は継母に対して、生母のように慕い、厚く親孝行したという。そして一八八三年、十三歳差の異母兄弟・常音が生まれた。常音は後に、伝道活動に邁進する常観を支えことになる。
西源寺については、二〇〇八年に当寺を取材した岩田文昭によると、元は天台宗系の寺であったという。織田信長による比叡山焼き討ちなどのため荒れ果てていた西源寺を、初代となる常賀法師が再興。一五八一年に逝去した常賀法師から数えて十三代目となるのが常観である。そして常観に浄土真宗の基礎を教えたのは、父・常随である。常観が幼少時に父の指導により筆写した阿弥陀経が現存している。
父から仏教を学んだ常観は、元彦根藩士が開いた寺子屋に通う。その後、東本願寺が経営する京都府尋常中学校に学んだ。同校の校長として一八八八年七月に赴任したのは清澤満之(一八六三~一九〇三)であり、常観は清澤から卒業証書を受け取っている。成績優秀だった常観は、一八八九年七月に東本願寺の留学生として、春日圓成、伊藤賢道と東京留学に向かうこととなった。
上京した常観は、一八九〇年に第一高等中学校の予科へ入学、一八九三年に同校本科へと進学し、一八九五年に卒業した。同じ年の九月に帝国大学文科大学哲学科へ進み、一八九八年七月に学士号を取得した。常観は、宗教哲学を研究するため大学院へ進んだ。
清澤は東本願寺の宗門を改革するため、白川党宗門改革運動を開始した。常観はその運動に参加、一八九六年六月(帝国大学在学中)に京都を訪れた。近角は学問を放棄してまでこの運動に打ち込んだが、翌年の二月に帰京した常観は、甚だしい精神的疲労と人間関係の苦しみを感じた。
近角の代表作である『懺悔録』には、当時の心境が克明に記されている。
さうして三十年二月二十日に歸京して、やれゝゝと安心したが、それから身體が無暗に疲れて、心が何となく苦しくなつて來たが、初は自分でもその譯が解らなかった。さうして居る中にも、朋友同志がどことなく仲の惡いのが苦になつて、どうかして人間が飽迄仲よく仕合ふやうにしたいと思つて、右に善くし、左に順ひ、彼を慰め之をを導き、色々と出來る限りの心配を仕やうと、大奮發でやりかけて見た。(中略)右に對しても、愈善くない、左に向かつても益々惡くなつて、果ては世界中の人を、誰を見てもイヤになつて來た。 (『懺悔録』一六~一七頁)
それまで常観が持っていた仏に対する有り難さも無くなり、殺人や自殺すら厭わない状態となる。また、以前に信仰を確立したと思っていたが、その信仰も崩れてしまう。
今まで佛敎を喜んだのも何もならぬ、佛樣も一向有り難くない、友人にも見離される、いかに愛讀の書物でも一向味がない、總てのこと何を思うても心を慰めることは出來ない。 (『懺悔録』一八頁)
私はその時分には事によると人を殺すことも出来たかしらんと思ふ位、人を殺すのが恐ろしくないばかりでない、自分が死ぬことも何とも無い。現に五月二十三日の晩は、自分が死なうかと思ふた。 (『懺悔録』一九頁)
全體私は、信仰が確な間は、試にも座禪するといふやうな氣がなかつた。されど從來の信仰が駄目になるや否や、學校を廢めて座禪を仕やうと思ひ立つた。 (『懺悔録』二二頁)
このような苦しい状態のまま、宮城県松島で行なわれた仏教夏季講習会に参加した。常観が発起人であるため、義理を守るために出席した。そこでの二週間というもの、友人に苦悶を訴えた。
「其時に、世の中に眞實の朋友がほしい、如何なるときにも我を見限らず、満腹の同情を以て我を慰め我を導く友人をほしいと、浸みゞゝ思ふた。」という。(『懺悔録』二四頁)
松島の講習会後、いったん帰京し、尾張の友人を訪ねた後、実家へ滞在した。その時も、調子の悪さは変わらなかった。
「物を食ふても默つて居る、何を話しかけても確かり挨拶もせぬ。そこで親が叱つて見たり慰めて見たりして呉れたが、一向に効がない。八月に及んでは苦悶の頂上であつた。一ツの小座敷の中を足を爪ま立てゝキリゝゝ舞ふて居つた。」(『懺悔録』二六頁)
大無量寿経の五悪段の記述が、まるで自分のことを書いてあるように感じたが、それでも佛樣を有り難く拝むことは出来なかった。
「『徙倚懈惰にして、肯て善を為し身を治め業を修めず、家室眷属飢寒困苦す、父母敎誨すれば、目を瞋らして怒應ふ。言令和がず、違戻反逆す。譬へば怨家の如し、子無きには如かず。』これらの經説が、一つも他人の事とは思はれなんだ、併しそれでも、どうしても佛樣を、有り難く拜むことは出來ぬ。日夜に泣き悲しんで、一心不亂に佛に祈りて救はれんことを求めたが、少しも何の感じもなく、泣きて涙出でぬ樣な心持であつた。」 (『懺悔録』二六頁)
九月には、ついに腰に痛みを感じ、肉の下が膿む「ルチュー」という難病にかかった。滋賀県長浜病院に二週間入院、九月十五日に退院。その翌々日、病院に患部の切り口を洗いに行く途中で、この上ない寂しさと味気なさを感じた。
「自分は罪の塊である、實に極惡である。自分は生きて居るといふのは、名前計りで、實は此途中の石塊と餘りかはりはないと思ふて、淋しく味氣なうて堪らなかつた」。(『懺悔録』二八頁)
しかし病院の帰り道、大きな心境の変化を体験する。
それから病院から歸り途に、車上ながら虚空を望み見た時、俄に氣が晴れて來た。これまでは心が豆粒の如く小さくあつたのが、此時胸が大に開けて、白雲の間、青空の中に、吸ひ込まれる如く思はれた。何だか嬉れしくてならんで家に歸つたが、叔父が私の顔を見て、どうしたのか一時に顔色が變つたと、大層喜んで呉れた。(『懺悔録』二八頁)
詳しくは述べられていないが、病院の帰り道で近角の心境は急に晴れわたってきたのである。そして、以前から求めていた理想の朋友が、実は仏陀であることを理解する。
「それから私は、つくゞゝと考へて、大に自分の心に解つて來た。永い間自分は眞の朋友を求めて居つたが、其理想的の朋友は佛陀であると云ふことが解つた。人間の世の中に向かつて、眞の朋友を求めたのは、誤りであつた。(中略)然るに佛陀は、此方が惡ければ惡いほど、いぢらしく思ふて下さる。此方が隔てれば隔てるほど、佛陀は胸を開いて迎へて下さる。」(『懺悔録』二九頁)
このような心境の変化を経験した常観は、翌十月には他の人に対して懺悔話をし、仏の慈悲を喜ばせてもらうようになったという。この時が近角にとって獲信の体験であったようで、何度もこの時の話を布教に使っている。
この体験を伊藤の獲信と比べると、深い罪悪観は見られるが自力と他力の廃立はみられない。また自力疑心ということも意識されていないようにとれる。
伊藤と近角を比較すると、近角はより社会的な問題に取り組んでいること、集まってきている青年等に対する態度が違うこと、法に対する解釈が違うことの三点が挙げられよう。
近角の求道会館には多くの青年が集まった。共同生活をしたが、毎朝の勤行は必須であったが、説教は参加不参加も自由であった。よって必ずしも浄土真宗の求道しなければならない、ということもなかったのである。しかし、常観は青年達が信仰を持ちそのことによって、社会で活躍していくことは夢みていた。このあたりは、伊藤と大きく異なる点である。伊藤のもとに集まってきたものは、みな後生の一大事を解決を求めて集まってきた者たちであり、伊藤は同行たちには、社会的な役割や、活躍は期待してはいなかったように見える。
また近角は、求道会館での信仰活動の組織を強化したり、継続していくことに熱心でなかったようである。伊藤の場合は、華光会が会館を持つことには反対であったが、御法を伝えていく上での後継者作りには熱心であったといえよう。増井悟朗、西光義敞、吾勝常晃などはその恩恵を受けたといえる。後継者になるといわれていた、近角の長男文常が戦死したことも、信仰活動が継続しなかった原因の一つであるが、常観自身が継続することにあまり意識がなかったようである〈18〉。
しかし、最も大きな違いが見られるのは伊藤と近角の安心の違いであろう。常観も、伊藤康善も、両者共に罪悪を説く。しかし、伊藤康善は罪悪はご恩を知るきっかけにはなるが、あくまでも、罪悪は煩悩であり、許されている心なので問題にしたのは疑心である。伊藤は『安心調べ』においてこのように語る〈19〉。
「少なくとも善惡相對―――煩惱と菩提とで信仰を論じては、凡聖齊入の本願で、聖者は除け者になる。
亦罪悪ばかり説いてゐては、どこまで罪惡に徹したのが信一念か譯が解らない。一念の時に罪悪が頓滅するのならば良く解るが、信後でも煩惱妄念は一寸も変わらぬのだから念持の義相が立たぬ・・・(中略)・・・眞宗では、かゝる「罪の沙汰は無益なり」と云ふのが蓮師以來の定まりになつてゐる。さうして信心は善惡相對で語るべきものでなく、信疑廢立で示すと云ふのが高祖の信巻に示された精神であり『改邪鈔』『御文章』がさうである。信巻の三心釋を見ると、如來の三信と衆生の三心とを比較研究して、如何にも罪惡観の深まつたのが信仰のやうに説いてあるが、これを歸結する御文は「疑蓋まじることなし」と九ヶ所も同じ文を出して信疑廢立で結んである。
伊藤は罪悪に徹することが信心につながるわけではなく、親鸞が問題にしたのは仏智を疑う心であるという。
信疑廢立だと經文も通じ、眞理にも合し現實にも體驗出來る。即ち善導の深信は疑が晴れたから、曠劫流轉の信機が知れたのであり、彌勒菩薩も、三世諸佛も、化土往生人も、疑のある間は彌陀本願が解らず、報土往生も出來ず、華光出佛の佛ともなれないのである。實際問題としても、「松蔭の暗きは月の光なり」を考ふれば、松蔭の暗い罪惡が問題でもなければ、本願の月光が問題になるのでもない。月光を障碍している疑惑の雲が問題なのだ。本有の煩惱を指して罪惡観というのは大間違で、それはお目當の機である。罪惡と稱するのは、自力迷情であり本願疑惑であり定散疑心である。
眞宗は本願の宗教であるから、茲に於て通途佛教の迷悟観と立場を異にする! だから罪の物柄も一變する!
蓮師が一念滅罪を云はれた罪とは眞宗獨自のもので疑心である。後念に「罪あれども無き分なり」の罪は通途佛教に同じ煩惱心である。」〈20〉
罪悪を問題にするのであれば、弥勒菩薩も、三世諸仏は無論のこと善導にも衆生のような煩悩は無いのである。阿弥陀仏に対する疑いが晴れなければ、何人も浄土に入ることはできない。
信疑の廃立を問題にしているか否かが、近角と伊藤の違いである。