第五章 第三節 第二項 黒い、白い、暗い心
伊藤は、自力と他力の廃立を分かりやすく説明する為に「白い心 黒い心 暗い心」という言葉をよく使用した。これは『仏敵』において、阿古長蔵が求道中の伊藤に語った言葉でもある。
「往生せられたおばさんが口癖の様に云つて居られましたが、後生の大事に向つては暗い心と黒い心とがある。暗い心は一念の時に治るが、黒い心は臨終まで治らない。で信を戴いた後になると、段々と我心の黒い自性、業の深いと云ふ事を判然と味ふ丈です」 (『仏敵』一七〇頁)
伊藤自身も、『善き知識を求めて』の「校正を了して」という文章で、次のように述べている。
結城青寿といふ坊さんの書いた「裁断申明消息説教」という中で見たものであるが、味のある言葉である。
『機法一体の南無阿弥陀仏は常流の安心、先ず機といふに就いて機相と機情と機受と三つに分けていふ時は、機相は黑い機、機情は暗い機、機受は白い機。
機相といふ時は―捨てられた機、嫌はれた機、落ちる機、悪業の機、己ながら愛想のつきる機、聞かぬ機、負けぬ機、凡夫性得の機、弥陀からもらはずに衆生にあり余る機、その機は所赦というてお許しの機。
ところで機情といふは―蓮台に座りたがる機、参りたい機、落ちまいの機、計らひの機、仕上げたいの機、すっかりなり度いの機、覚えたい機、これは所廃というて捨てる機じや。
機法一体の南無の機は、法体己成の他力の機、一乗円満の機、別途の機無類の機、白い機、衆生にない機、弥陀にある機、弥陀にあるのは弥陀じやない衆生に与える機、これが南無の機で他力回向の機じや』 (『善き知識を求めて』七七頁)
伊藤の一連の著作から、この黒い・白い・暗いという三種類の心をまとめると、次のように表わすことができる。
・黒い心―煩悩の心であり、これは阿弥陀仏より許されている心。死ぬまで治らない心。
・白い心―阿弥陀仏の心、南無阿弥陀仏。弥陀より戴く心。もらいもの。凡夫には全く手の出せないもの。
・暗い心―阿弥陀仏を疑う心。捨てる心、後生難儀の機、本願疑情の機などと呼ばれる。暗い心は救いの妨げとなる反面、宿善の機ともいう。真剣に求道しなくては気付かない心であり、この心に気付くことで後生が心配になってくる。これを仏敵とも呼ぶ。
このように説明し、暗い心を問題にして求道しなくてはならない、と伊藤は述べている。以上を図に表すと、次のようになるであろう。
黒い心、つまり煩悩は罪悪を作っていく心であるが、阿弥陀仏より許されている心であり、救済の対象である。問題となるのは阿弥陀仏の本願を疑う心であり、このために未来永劫に迷っていくと伊藤は説いた。一般的には、罪が深いから地獄に落ちると思われがちであるが、阿弥陀仏によって罪が深いことはすでに許されているのである。それなのに、なぜ弥陀同体の仏になれずに迷っていくかというと、本願に対する疑い心が残っているからである。