第五章 第三節 第三項 示談
示談とは、求道者と善知識が向かい合って、獲信への取次ぎを行うことである。伊藤はその著書に記してあるように、仏法の話をした後に、必ず求道者の話を聞き、相手の立ち位置を確かめてから助言を与えている。それは、自力一杯である求道者の持ち物、気持ちを奪い、切り捨てていくような勧めぶりである。
この過程において求道者は、自分の持ち物が何一つ往生の役に立たないと知れてくる。自力無効ということが知れて、廻心が起ってくるのである。これは自力疑心が取り払われていくプロセスとも言えよう。求道者の中の「自分は救われるはず」「いつか獲信できる」というような予定概念が、求道の過程において取り払われていくわけである。現在では、この示談というスタイルが残っている寺院は非常に少ないのが現状であろう。一方的に僧侶から話を聞いた後に行われることといえば、質疑応答ぐらいのものである。教義上の疑問や日常生活への助言などが主なテーマである質疑応答と、他力信心の獲得のみをテーマとする示談とは、性質の異なるものである。
また伊藤は、説法をしてもその後、さらに時間をかけて示談の時間を持った。その中で、求道者は善知識と向き合い、時には非常に激しく自力を叩かれる。説く方も聞く方も命をかけた真剣勝負であるというのである〈37〉。
伊藤は信心を戴くのに型はないというが〈38〉、彼が残した体験記には、常識的な見方からすれば奇異に思われる場面が多数見られる。本論で取り上げた求道体験記にあるように、自分が落ちるべき地獄が眼前に広がってくる者もあれば、まさに地獄に落ちていくような体験が起こってくる者もある。『仏敵』にもあるように、伊藤自身、光輪が胸に流れ込んでくるという不思議な経験をしている〈39〉。他にも、床を這いずり回る者もあれば、畳が汚れるほど涙と鼻水を撒き散らす者もあれば、激しい念仏が止まらなくなる者もあるという。反対に『悟痰録』の尾上のように、そのような劇的なものが全く無い者もある〈40〉。
獲信するに当たって、皆が示談中に獲信するわけではないが、求道を進めるために必要なものだと伊藤は言う〈41〉。
では、そのような不思議な体験は、獲信における必要条件なのであろうか。この問いに対してはこれまで見てきたように、自力と他力の廃立は立ったのか、自力疑心は取り去られたのか、後生の解決はついたのか、という点を伊藤は最重要視している。つまり、不可思議な体験に意味があるのではなく、今現在、死んでも大丈夫である、と言える身になったかどうか、ということなのである。
現在でも華光会では、示談の形式を保ち続けている。法話の後に、小人数のグループに分かれ、座談会の時間を持つ。グループの人数はその時によって変わるが、五人から二十五名程度である。各グループには中心となる僧侶と、カウンセリングを学んだ司会者がいる。話合いが進む中で、求道者対僧侶の真剣は問答に展開することがある。あるいはこのような座談会以外に、求道者が僧侶に予約して、一、二時間程度の一対一の示談をすることがある。同会の機関紙『華光』に掲載された寄稿文においては示談を通じて獲信する者が多く見られる。