第五章 第三節 伊藤康善より考察できる獲信への過程
第一項 自力と他力の廃立
「自力と他力の廃立」こそが、伊藤がその布教において非常に重要視していた言葉である。堀尾よしが獲信するきっかけとなったのも、この自力と他力の水際を立てる、という内容で示談を受けたからであった。また伊藤は仏教大学で学んでいたにもかかわらず、堀尾から聞くまでこの言葉を知らなかった。
自力と他力の廃立について、伊藤が信仰雑誌『華光』において問答形式で説明をしている文章を取り上げたい。
「先生は廃立といふことを申されますが、それはどう云ふ意味ですか」
「眞宗の法義は親鸞聖人に依つて大成され、三代の覺如上人に要約され、蓮如上人が普及されましたが、そこに一貫する精神は廃立です。此の言葉は法然上人の『選擇集』に現れて居りますが特に強調されたのは覺如上人です。『改邪鈔』には「當流にはいくたびも廃立をさきとせり」と申されてゐます。蓮如上人は『改悔文』で此の廃立を示されてゐます。」 (『華光』一八―五号、一頁)
真宗の教えに一貫するのは廃立であるという伊藤は、法然の『選択本願念仏集』、覚如の『改邪鈔』、蓮如の『改悔文』を根拠にあげる。
「さう云ふ話を始めて承りますが、何故そんなことになるのです。」
「阿彌陀如來様の本願が廃立で選擇本願と申します。四拾八願の店開きされたが、第拾八願を中心として南無阿彌陀佛の一行を選び取られたのです。」 (『華光』一八―五号、一頁)
「私達は如來様の本願は絶對他力で無條件の救濟と聞いてゐます。平たく云へば凡夫そのまゝのお助けの勅命を聞いてヤレ安心と受取るのが眞宗の安心と聞いてゐますが・・・・・・。」
「その言葉正しかざれば、その信も混雑します。絶對他力とか、無條件の救濟とか、凡夫そのまゝの御助け等といふ言葉が眞宗聖教の何處に示されてゐますか。」
「何處にあるのか知りませんが、教界の有名な人達が話して居られるので正しいと存じます。」
「それは大きな間違で祖師の安心から見れば異安心です。教界に於て如何に有名であらうとも聖教の所判になきくせ法門は断じて用ゐてはなりません。」 (『華光』一八―五号、一~二頁)
伊藤は真宗の救いはそのままの救い、無条件の救いではないという。
「絶對他力といふのが何故不可いのです。」
「相承の聖教に此の言葉はなく、且つ廃立を以て生命とする本願の御心に反いてゐるからです。此の言葉は清澤滿之氏を始めその弟子達が流行させた言葉で哲學的に云へばヘーゲルの絶對精神から來てゐます。大たい絶對他力等とは意味をなさぬ熟字で、絶對といへば自他力を超えてゐるから絶對力とか超越力とか云ふべきです。他力を絶對化するのは次の無條件救濟を云ひたい爲で、凡夫そのまゝのお助けもここから生れて來た。」
「阿彌陀様は無條件の救濟と違ひますか。」
「違ひます。」
「どうして違ひますか。」
「本願に三信十念と誓ふてゐる。願成就に受けて一念の信となつてゐます。名號を聞く信一念に往生が決定するので、これが救濟の條件と云へば條件です。」 (『華光』一八―五号、二頁)
絶対他力という言葉は聖教にはなく、清澤滿之らが流行らせたことである。信の一念に往生が決まるゆえに、獲信することなしに救われることはない。よって無条件ではないと伊藤はいう。
「その名號を聞く信一念と云ふのが、換言せば凡夫そのまゝのお助けと違ひますか。」
「違ひます。凡夫そのまゝのお助けと云ふ言葉は第一に眞宗聖教の何處にも現はれてゐない。又信疑の廃立も判然しませぬ。凡夫の心の中には善い心もあれば惡るい心もある、後生に暗い心もあれば彌陀や淨土を疑ふ心もある、その心の廃立も示さずに凡夫そのまゝのお助けでは惡るい心を持つたまゝ、後生が暗いまゝ彌陀を疑ふまゝのお助けとなります。現に疑ひ乍らの往生を主張した僧侶もあつた位です。」 (『華光』一八―五号、二頁)
凡夫そのままの救いということは聖教のどこにも書かれてはいない。凡夫をそのままでよいならば、後生に暗い心や弥陀を疑う心もある。そのままの心であれば、後生が暗いまま、弥陀を疑うままの救いとなる。疑いをもったままの往生ということを主張する僧侶もあった、と伊藤はいう。
つまり伊藤は、獲信により疑い(自力疑心)が無くなる必要がある、と主張しているわけである。これを図に表すと次のようになるであろう。
さらに伊藤は、凡夫そのままの救いを説く教えが蔓延した理由について、このように説明する。
「何故こんな説教が流行するのでせう。」
「昔北國にたのまず秘事の一派があつた。蓮如上人が御文章に「たのめ」と申されるのが安心の癌である。たのめば自力になるし、たのまねば無力になる。さうでない、上人の本意は凡夫そのまゝのお助けであると一念抜けの信仰を鼓吹したものがあつた。これに對して功存は『願生歸命辨』を書いて、そうでない、本願には三信とあり、三信を欲生に収めて淨土へ参らせて下さいと云ふ願生心があると説いた。すると大えい師が反對して、願生歸命でない、信樂の一心であると、信心を説いた。それが亦行過ぎて、凡夫そのまゝ救ふと云ふ説教は廣島あたりから流行したが滿天下を風靡した。
今日では更にそれが悪化して欲生も信樂もヘチマもない、信心も安心もたのむも要らぬ、何でもかでも彌陀に救はれるのだと益々大風に灰を撒いたやうなことになつた。これを粛正するには祖師聖人の聖教を深く讀まねばなりません。」 (『華光』一八―五号、二頁)
伊藤はなぜ凡夫そのままの教えが流行したかの原因を三業惑乱に見る。そもそも、蓮如が御文章に「たのめ」と残されたのが、異安心のもとであるという。
功存が第六代能化であったころ、北陸を中心に「十劫安心」が広まっていた。これは「無帰命安心」ともなり、そのまま何もしなくてもお助けという理解にもなる。
その異安心に異議を申し立てるため、功存が『願生帰命弁』を執筆した。その中で身、口、意の三業で弥陀に帰命する必要があると記したので、これに反発するものが表れたのである。
第七代の智洞にいたって、門主の文如上人に代わって大経の講義を行い、全国の僧侶が集まる中で三業帰命説を論じたので、広島の大瀛と河内の道隠らが、信楽つまり信心によって救われると反論したのである。
そのことを発端に三業惑乱が起こり、解決までに十年もの歳月を要した。そのことが今だに影響し、無帰命安心となってもいけないが三業について触れることも嫌われ、信心も安心もたのむもいらず、この身このまま誰でも救うというような風潮になった、と伊藤はいう。
「併し信仰は時代と共に變るのでありませんか。先生のやうに一々聖教の所判と申されると我々の信仰に發展性も新鮮味もないことになります。」
「本願は時機相應の本願だから時代思想の影響も受けるでせう。併し今日のやうに布教師が宗學を馬鹿にして自分勝手な手造り信心を作り上げて安心の安賣りをしては我々は黙つてゐることは出來ない。右に聖教の明文と左に深酷なる廃立の体驗を以て、此の亂れた教界の安心を正さなくてはなりませぬ。娑婆の終り、臨終と思ふべしと云ふ位に激しい信一念を有耶無耶に過すやうな誤魔化しは断じてやつてはならぬのである。」 (『華光』一八―五号、二頁)
信仰は時代と共に変わるものではないか、という反論にたいして、伊藤は時機相応の本願であるから、時代の影響も受けるであろうという。しかし今日のように布教使が宗学を大事にせず自分で勝手に手作りした信心を広めていることは断じて許せない、と伊藤はいう。聖教で明らかなることと、自身の獲信を通じて廃立を知ることが大事であり、時代が変わってもそこだけは断固として誤魔化してはいけない、というのである。