第五章 近代における布教者の獲信解釈、および伊藤との比較
はじめに
伊藤のように劇的な廻心体験を記録に残した場合、典型的な批判として機責めや一念覚知の異安心である、というものがある。現在もインターネット上に、伊藤が創設した華光会に対して、異安心であるという批判がある。確かに伊藤の残した求道体験記には、奇異に思える文章が随所に見られる。そのような記述から、異安心だという批判が生まれるのであろうと推察される。奇異に映るのは主に、求道者が他力信心を得ようとして得られずに苦しみ、自身に迫る死や罪悪を強烈に意識して苦悶する場面である。また、求道者が信心を得て尋常ならざる歓喜を味わう場面も、一念覚知と批判される要因であろう。
しかしながら、批判者は奇蹟や奇瑞を警戒する余り、劇的な体験はすべからく異安心である、という偏見に陥ってはいないだろうか。真宗教学に則して考えた場合、他力信心を頂いたならば、未来永劫迷っていく罪業を背負った凡夫が、阿弥陀仏と同体の仏となる楽果を得る身となる。そのような不可思議な出来事が獲信であるわけだが、他力信心を得る時に劇的な出来事が起こるのは異安心である、と決め付けるのは妥当であろうか。この点を見極めるため、本章第一節では石田充之、鈴木法琛、大原性實の著書を参照し、異安心の定義を確認した上で、伊藤が異安心に該当するか否かを検証する。
また先行研究を用いて本論を進めたいところであるが、伊藤が著名な僧侶ではなかったためか、伊藤を対象とした論文は非常に少ないという現状がある。そこで第二節では、伊藤の信心と教学理解などを客観的に検討するため、伊藤と比較し得る近代の布教者三名(近角常観、大沼法龍、羽栗行道)を取り上げ、彼らの著述から、廻心体験と獲信への導きについて考察する。
伊藤は、煩悩心と自力疑心、および他力信心の関係性を明瞭に把握していたと推察される。よって第三節では、伊藤がどのようにそれらの関係性を捉えていたか、解読を試みる。また実際の布教において、伊藤はしばしば、求道者と対面して他力信心についてのやり取りを行った。これは浄土真宗において、一般に示談と呼ばれている信仰相談である。以上を通して、その獲信への過程を考察することで、真宗教学史における伊藤の再評価を更に進める考えである。