第六章 第一節 西光義敞の宗教的経験
西光義敞は一九二五年六月三十日、奈良県宇陀郡室生村の万行寺の長男として出生した。
小学校六年生時に、京都本願寺本山近くの仏具屋で地獄絵の掛け軸を見て、非常な恐怖を覚えた。中学卒業後に龍谷大学予科に入学、その後、太平洋戦争中であったため工場へ勤労動員された。そして一九四五年六月、大日本帝国軍隊へ入隊。終戦まで二ヵ月半、演習などの兵隊生活を経験する〈1〉。西光にとって仏法において疑問となったのは、日本史教師であった宮崎円遵(一九〇六~一九八三)の講義の中で聞いた「世間虚仮、唯仏是真」の言葉であった。
この辺のところは、私の求道や思想遍歴にとりましては、きわめて重要な意味を持っていますので、これまでも折にふれては何べんもお話ししてきたような気もするんですけれどもね。
「唯仏是真」(ただ仏様だけが真実だ)というが、仏様というのは考えていけばいくほど、つかみ所のないものでしかないんじゃないか。実にその存在は不確かなものではないのか。在るものとして拝んでいるけれども、「本当にそんな仏さん在るんですか」と、あらためて真剣に問い詰めていったら、スッと消えていくような頼りないものではないのか。
「世間虚仮」(人間世界はすべてむなしく仮のものに過ぎない)というけれども、人間世界の中に展開しているもろもろ、さまざまなものごとこそ、疑いようのない事実ではないか。それを「虚仮」とまるごと否定してしまうとは、どういうことか。
大学が目指す「学問」「真理探究」も虚仮か。国をあげて戦っているこの「聖戦」も、うそ・いつわりか。「親子の愛情」や「友情」もむなしく、まことがないというのか。そんなばかな。そういう確かなものを虚仮として否定してですね、存在の不確かなものとしか思えない仏様だけが真実だ、と言い切るとは、実にニヒルな、虚無的な考え方ではないのかと、根本的な疑問をいだかざるをえませんでした。〈2〉
当時の西光にとっては、むしろ仏の方が頼りのないもので、人間世界のものこそが、疑いのない事実ではないかと思えた。この世界を丸ごと否定するということは、自分が真剣に生きていることをも否定することになる。学問も、親子、友情、この聖戦も虚しいのか、と反発を覚えるのだった。それではあまりに虚無的であるし、根本的な問題を抱かずにいられなかったのであった。軍国主義的な教育を受けてきた西光は、大日本帝国は揺るがないと信じていた。この謎を是非解かなくてはならないと、西光は心に決めるのであった。
しかし、大日本帝国の敗戦となり、西光は大変な衝撃を受ける。昭和の初めに生を受け軍国主義だけで育てられた西光には、それはあってはならないことであった。その上誰よりも信頼していた父親が敗戦と同時に亡くなったのであった。このことは西光にとって「世間虚世仮」ということを実感させることとなったのである。
一九四六年、龍谷大学(学部)へ入学して大乗仏教研究を始め、西光の龍樹菩薩の『根本中論』研究に取り組む。大学卒業後、京都平安学園高校の教諭となり、同時に龍谷大学研究科(大学院)での勉強も続ける。しかし、情熱をもって仏教を勉強しながらもどこか、孤独に襲われる。仏教は学んでいても仏教の心はわかっていないのではないか、と悩む。仏教学の本を学んでも肝心の安心はぼかしているように感じた。そこで、西光が惹かれたのは、鈴木大拙(一八七〇~一九六六)の思想であった。西光は鈴木についてこのように語る。
この人の学問は仏教学といっても、多くの仏教学者の仏教学とは、一味も二味も違います。それは、まず鈴木さんが二十五歳の時に、はっきりとした見性の体験、禅の体験があってですね、その体験をもとにして仏教の研究をしているというところであります。
ところが、多くの人の仏教学は言葉の上では、なるほどと追っていけるけれども、ここんとこもう一つと問い詰めていくと、ボヤけてくるというか、分からないというか、そういうところがあるように私には思われました。
鈴木大拙さんの本は、味が違うわけであります。禅のものではありますけれども、ヒタヒタと心に感動するものがある。それで、私はインドの大乗仏教の原典研究をすすめるかたわら、鈴木さんの本を熱心に読みました。ある本なんかは何十ペん、何百ペんと言いたいくらいに読むほどの力の入れようでありました。鈴木大拙師に直接お会いしに行ったこともあります。〈3〉
西光は、鈴木の仏教学は彼自身の体験に基づいて記してあるため、他の仏教学者とは断然違うと感じていた。大乗仏教の研究を進めながら、何百回と鈴木の本を読んで感動し、本人に会いにいくほどであった。しかし、西光はそのうち、自分は鈴木の仏教学の中毒にかかっている気がしてきた。
ところが、そうしているうちに、私は鈴木大拙先生の仏教学の中毒にかかっているんじゃないだろうか、という気がしてきました。それはたとえばこんな感じなんです。
お酒の雰囲気って、いいでしょう。みんなね、楽しそうな。だから、そういう雰囲気を求めて酒の場へ行きますと、みんなが楽しそうにしてる。それにつられて手を打ったりね、楽しく笑ったりします。けれどもね、こちらに酒が入ってませんとね、酒の座を離れて一人になったら、どうってことはない。酒の入った人がかもしだす雰囲気を楽しんでいただけのことですから。ところが、下戸でもその酒の雰囲気がすごく好きだったら、また酒の場へ行くでしょ、飲めなくってもね。
それと同じでね、鈴木さんは禅という酒を飲んで、酒を飲んだ味わいや喜び を次から次へと本に書いていかれる。それを読んだら、すごく私は感動するけれどもね、本を読んでる限り、鈴木さんの言葉に触れているかぎりは感動するけれども、その本を閉じて、自分の心の中に何が残っているのかというたら、何も残っていない。〈4〉
西光は鈴木の本を読んでいる間は感激し、有難くなるけれど、本を閉じてしまえば自分の中に何も残っていないことを感じ始めた。それは、鈴木は禅の体験という酒についての本を読んで、飲んでもいないのに雰囲気に酔っているだけであることに気づいたのである。しかし他に道も見出せないままに過ごした。
転機が現れたのは教諭になって二年目に、健康診断の精密検査で肺結核と診断され、絶対安静と言われた時である。西光は非常にみじめな気持ちになった。今まで積み上げたものが崩れていったのである。天井をにらんでの闘病生活がはじまった。
そんな折に『仏敵』との出会いがあった。西光はこのように印象を語る。
この本はどうも変わった本なのです。というのは、今まで読んだ信仰書は、読めば読むほどヒタヒタと有難い、法の有難さが心に伝わってくるような、思わず「ナンマンダブツ」と称えたくなるような感じでしたが、この本は、有難い気持ちを次から次へとひんめくっていくような気色の悪い本なんですね。〈5〉
『仏敵』は今まで読んだどの本とも異なり、有難い気持ちをどんどん取られていくような本であったという。そして、伊藤が堀尾に初めてあったときにいわれた『自力と他力の廃立』の言葉に引っ掛かったのであった。
「当流には捨て物と拾い物とがある。これが分からねば、百座千座の聴聞も何の役にも立たぬ」〈6〉
ここのところで、私の信仰は崩れ去ったのです。「捨て物と拾い物?」それが分からない。これまで、学んだり、聴聞してきた仏教の知識や体験を総動員しても、このナゾは解けない。
仏教の本当の心を知りたいばっかりに仏教学を専攻し、一生懸命に勉強してきた。信仰も求めてきた。ところが、「捨て物と拾い物とは何か」という問いに答えが出せない。
ということは、私は何も仏教が分かったことにもなっていないし、有難いも嘘。これは落ちていかねばならん。これまで信じきり、頼りにしきっていたはずの仏教も何の助けにもならず、真っ暗な底へ落ちていくばかり。しかも身は、助かるか助からんかの一大事をかけた、安静度一度の病床にあるのですから、どうしようもない。
ここで、私は、落ちる、という体験をしたわけであります。そこのところは、言葉にしにくいですけれども、しいて言葉にしたら、真っ暗な古井戸の底へ落ち込んでいくような体験と、そのままに身をまかせている安堵感とが一枚になった喜びが、私の心の中にこみ上げてきました。その時に私が感じた気持ちや情景は、今もなお鮮やかに思い出すことができます。〈7〉
「捨て物と拾い物」の意味が分からないことに、西光は大きく動搖した。これまで仏教を理解したいと必死で学んできたのに答えが出ないのである。そのときに西光の信仰は崩れたという。有難いのも嘘であった、勉学も助けにならない、その時、西光は真っ暗な底へ落ちていく体験をしたのである。しかし同時に堕ちながらも、その身を阿弥陀仏に任せきっているという喜びを感じたのであった。絶対安静で声は出せなくとも、身体中の血が沸き立ち、虫の音や全ての声が念仏の徳を讃えるように心に響いてきたという〈8〉。
そこで気づかせてもらったことがあります。今までは、「ああ有難い、これでいいのだ、このままで救われているのだ」というて喜んでおったけれども、「これでいいのだ、これでいいのだ、これでいいのだ」と、しょっ中、心の奥底で言い続けていたなあ、ということです。「これでいいのだ、これでいいのだ」と言い続けなければ安心できないような、仏智疑惑の大変なものが、その底に流れていたんだな、と、如来様の願力にぶち当たって、初めて分かりました。これでいいんだ、と押さえる気持ちがなくなりました。〈9〉
西光が気付いたのは、いつも自分に、ああ有難い、これでいいのだ、これでいいのだ、と言い続けなければ安心できないような恐ろしい疑惑心が潜んでいたことであった。
そうしてですね、私は今まで、「一生懸命になって聞かなければならない」と思い、真面目に求道し、聞法しているように思っていたけれども、それは自分の心に合うものを浅ましく捜しているだけのね、自分の貪欲の所作でしかなかった。本当に手あかのつかない、きれいな聞法や求道なんて、いっペんもやったことはなかったんだ。
それをいかにも、仏教学を研究してます、聞いてます、というふうな顔をして、大変な思い上がりをしていた。そういう形で如来様のお呼び声に、耳をふたしていたんだな、願力を疑っていたんだな、ということが分かりましたですね。
本当の聞法は今から始まる、真の求道はこれからこそ始まるんだ、という新たな思いが湧いてくるのを覚えました。私は、永い迷いの罪を恥じ、如来様におかけした苦労を申し訳ないと思うと同時にですね、広々と開けゆく希望と歓びが胸に満ち満ちてあふれるのを、とどめることができなかったことを思い起こすことができますし、時間系列の中で、信仰のことを語るならば、いつも、私はこの原点に戻ってしまうわけであります。〈10〉
西光は自分が大変な思い上がりをして、阿弥陀仏の声を聞いていなかったことを恥じた。ご苦労に申し訳ないと思うと同時に、清々しく、これから聞かせていただこうという希望と喜びを感じるのであった。そして、西光はいつでも、この時点の気持ちにかえることができるという。この獲信の体験こそが、西光のそれからの原動力となったわけである。
それが何であったのか、それは一時の精神の異常現象であると人はとるかも知れないし、神秘的・霊感的な心理的体験だと言うかもしれません。が、そう理解されることが私には嫌なんです。それは私にとっては決定的に大事なことと思うのですが、私はこのような体験をしたということはあまり言いたくないのです。本願寺派ではとくにそういうことに警戒的なので、口にしません。それは私には非常によくわかるのです。私がこのように体験したとか、このような体験を慶ぶとか慶ばないとか、そのようなところで自慢したり誇ったり議論するというような心理的次元を、お念仏の信心は超えているからです。しかし私自身にとっては、このことがなかったら私は浄土真宗に遇い得なかったのではないかと思うくらいに、大事なことなのです。
そこから開けてくる世界は、私にとっては大事というのか、不思議というのか、たとえばいままでわからなかったお聖教の言葉が本当によくわかるようになりました。〈11〉
西光はこのときの体験をあまり話したくはない、という。信心は、体験を誇ったり、自慢したり、議論する次元を超えているからである。しかし、この体験がなければ西光は浄土真宗に出遇えなかったほど大事なものなのである。
西光は直接伊藤に会うことも無く、『仏敵』を通じて病床で獲信した。これは増井悟朗と似たケースであるといえる。この後に西光は、伊藤に礼のハガキを出したことがきっかけとなり、増井悟朗を紹介されている。病気から回復した西光は増井を訪ね、それからは華光会の活動に関わっていき、さらなる活動を展開する。西光の大きなエネルギーの源は常に、この獲信の体験にあったといえよう。