第六章 第二節 真宗カウンセリング
西光は真宗カウンセリングの創始者である。西光がカウンセリングに興味を持ち学んだのは、現代の真宗界に対する深い反省があったからである。本論においては、具体的なカウンセリングの実践方法は西光の書籍に譲るとして、西光がカウンセリングを取り入れた理由とその理論を検証する。西光は既成仏教教団をこのように批判していた〈12〉。
思えば、既成仏教教団の僧侶は、古い秩序によりかかり、国家権力に迎合して、いまのいままで惰眠をむさぼってきました。信仰運動ひとつに命をかけるべきなのに、 生命のぬけた儀礼を生活のための手段として、型のごとく執行するだけの僧侶になり下っていました。説教すらできない僧侶が多く、たまたま仏教行事のなかにくみこまれた説教も、上から下に向って一方的な教義のおしつけで、同行たちの個々の悩みに的確にこたえるものではありませんでした。日常生活でも、身にしみついた特権意識はぬきがたく、一段高いところからものを言う傾向は、いまだにぬけきっていません。
西光は既成仏教教団を、日常生活においても特権意識が身についており、高いところからものをいう傾向にある、と批判する。信仰活動に最も力を入れるべきであるのに、法事葬式仏教になり下がっているという。
そのような自覚と反省から、「親鸞さまとともに、心あたたまる話し合いをしよう」、「住職や坊守は、門信徒たちのよき相談相手となろう」というまじめな叫びが起こり、真宗教団の全国的な運動として、展開し滲透しはじめたことは、まず喜ばしいことと言わねばなりません。
その具体的なあり方については、まず徹底的に浄土真宗の伝統に学ぶべきでしょう。 とくに親鸞聖人や蓮如上人の教えや実践のしかたを調べつくすことが肝要だと思います。また、新興宗教の布教法にも、謙虚に学んでいきたいものです。さらに、それらにまして力を入れて学習しなければならないのは、ヨーロッパやアメリカでさかんなカウンセリングではないかとわたしは思うのです。〈13〉
真宗教団全体に改善しよう、聞徒のよき相談相手になろうという動きを西光は評価している。西光は真宗内部から学ぶだけではなく、新興宗教からも学び、さらに大事なことアメリカやヨーロッパで盛んなカウンセリングを学ぶべきであるという。
とくにアメリカは、心理的適応や人格的成長に援助を与える専門的な仕事としての、カウンセリングや心理療法がきわめてさかんです。それは、先進資本主義国であるアメリカの社会の必然的要求から生まれてきたものにちがいありません。なにもアメリカのまねをしなくてもいいではないかと言われそうですが、日本の社会状況や精神状況が、おそかれ早かれ、アメリカのそれに近づいていくような気がするのです。たとえば、非行青少年、ノイローゼ患者、精神病患者とか呼ばれる人が年々増加し、健常者、健康者と思われている人の性格も、その影響を受けずにはおられないと思います。
それから、カウンセリングは、心理学という科学に基礎をおいた臨床です。宗教が時代に即応して、活動するために、もっとも新しい科学的成果を、積極的にとりいれていくのが、当然です。今までの既成仏教は、科学を一段低いもののように見くだして、これを謙虚に身体的に学びとっていこうとせず、どちらかと言えば拒否的な態度をとってきました。これは愚かなことだったと思います。〈14〉
西光はこれまで既成仏教が科学を低いものとし、そこから積極的に学んでこなかったことを批判する。布教をするには、現代人の苦悩していることを知ることが大事である。日本の現状はアメリカの社会状況、精神状況に近づいている以上、そのアメリカで切望されているカウンセリング、心理療法を学ぶべきであると西光はいう。
その点では、キリスト教を見習わなければなりません。あらゆる科学の成果をとりいれて、きわめて具体的、現実的な実践神学をうちたてています。教区民一人ひとりの魂を気づかう「牧会学」など、その良い例でしょう。
それからもうひとつ、わたしがカウンセリングの学習に熱意を示さずにはおれないわけは、最近のカウンセリングの内容がきわめて深くなり、適用範囲も前よりずっと広くなっているからです。たとえば、カウンセリングは病理的人間の治療というより、もっと積極的に人間の健康な部分を十分にはたらかせ、失われた主体性や創造性を回復させることを目ざすようになってきています。古いカウンセリング概念にとらわれたり、独断的なカウンセリング解釈におちいって、言葉をこえた事実そのものを見つめていくことを忘れることは、けっして賢明ではありません。〈15〉
西光がカウンセリングを勧める意図は、近年その内容が深くなってきており、適用範囲も広く、単なる病理的人間の治療ではないという点にある。たとえ健康な人間であっても、さらに主体性や創造性を回復させることができる。
次に、真宗カウンセリングとはどういったものなのであろうか。これより真宗カウンセリングの基本的な概念を述べたい。
西光はカール・R・ロジャーズ(一九〇二~一九八九)の来談者中心のカウンセリングに出会い、大きな感銘を受けた。一九六〇年、西光が三五歳の時、教員として勤務していた京都平安学園にカウンセリングルームを設置した。翌一九六一年には「真宗カウンセリング研究会」を設立している。当初のメンバーには信楽峻麿(一九二六~二〇一四)、加藤西郷(一九二七~二〇〇九)らがいた。
西光は、大きく捉えるとロジャーズのカウンセリングを次のように表現出来るという。
カウンセラーが裏表のない態度でクライエントに接し、クライエントを心から大事にしクライエントの気持ちを深く理解しようとする態度がつづくと、クライエントの心の状態がだんだんといい方に変わってくる〈16〉
西光はロジャーズを高く評価し、この理想的なカウンセラーの態度による臨床結果を数多く集め、分析し、洗練させた偉大な人物であるという。当時の臨床現場は、分析型の治療法が主流であった。しかしロジャーズは、分析型では治療を速やかに進まないことを疑問視し、この方法にたどりついたのである。現在では、どのカウンセリングの分野でもロジャーズが提唱したこのクライエント中心療法が知られている。
西光は五つの基本的な仮説、五つの条件、六つの技術を挙げている〈17〉。本論において詳細に触れることは出来ないが概要を記しておく。
五つの基本的な仮説
一、クライエント中心のカウンセリング
従来カウンセリングはクライエントの回復はクライエントの正しい分析に基づいた応答によると思われていたが、ロジャーズの研究によって応答よりもカウンセラーの態度によって治療が決まることがわかってきたのである。よってこのカウンセリングを学ぶのはクライエントに相応しい態度を習うのである。
二、だれでも成長力をもつ
人間は誰でも、成長や適応や健康へと向かう根源的な力を持っている、という考えである。しかし、実際には、環境などの影響により発揮できないでいるという。カウンセリングとはその環境をととのえ、援助することだといえる。
三、感情を重視する
カウンセリング場面においては知的な面より感情的な面を重視する。人間は知性よりも感情に左右される。よって出来事よりもクライエントの今の感情を受け止めることを重視する。
四、人間の成長をめざす
個人の訴える悩みよりも、問題を抱えた個人の人格的成長を目的とする。人生においては悩みは形を変えて次々に現れる、よって対症療法的に直していくのではなく、問題を処理できる力ができることを目指す。
五、現在を重視する
個人の過去は問わず、現在のカウンセリング場面を重視する。カウンセラーは過去を知り、分析したがるものであるが、現在刻々のクライエントを捉え、人格的接触をもつ。
五つの必要充分な条件
一、カウンセラーとクライエントの間にある程度の信頼関係があること。
カウンセラーとクライエントの間に心のつながりがあれば意味深い積極的な人格変化が起こりうる。
二、カウンセラーが受容的であること
カウンセラーはクライエントに対して無条件の積極的尊重をもってクライエントに接していること。
三、共感的理解
カウンセラーはクライエントとともにクライエントが感じているごとく、理解すること。
四、自己一致
カウンセラーとクライエントの関係を結んでいる時間内において、カウンセラーはありのままの自分であること。自分自身の中で起こってきていることに対してをも共感的に耳を傾け、いつわりなく純粋であろうとすること。
五、伝達
以上あげた四つの態度が、クライエントに伝わっていなければクライエントに治療的な変化が起きないため、後述するの六つの技術を参考に伝達していく。
ロジャーズの素晴らしい点は、これらの条件が、カウンセリングを成功させるのに必要にして充分な条件であるということである。しかもこの方法はどんな症状のクライエントにも使えることである。そして様々などんな人間関係でも応用できる。日常においても素晴らしい友情関係や人間関係にあるとき、一時的にもこのような条件が揃う時がある。人々はその関係のある時に成長することができる。カウンセリングとは、その普通の人間関係で一時にすぎないものを時間的に広げたものであると西光はいう。
六つの技術
一、場面構成
クライエントに対してどのような形でカウンセリングがすすんでいくかを、様子をみながら理解してもらうこと。クライエント中心で進んでいくことや、時間の設定。その時間はクライエントのものであり、自由に使っていいことなど。
二、簡単な受容
クライエントの言葉に対して、賞賛や非難の言葉が入らないようにすること。
三、内容のくりかえし
クライエントが話した内容をできるだけ忠実に繰り返していうこと。そのことによってクライエントは安心感と信頼感を深めることができる。
四、感情の反射
クライエントが表明した感情や気持ちを、あたかも鏡に映してみせるように、そのまま言葉にしてかえしてみせる。
五、感情の明確化
クライエントが自分の気持ちをうまく表せないでいるようなときにカウンセラーがはっきりさせて適切な言葉にまとめて反射する。
六、カウンセラーの感情の表現
カウンセラー自身が先入観、偏見、自己防衛などから開放され、ありのままの自分になれているとき、今自分の中で動いている感情を表明することは、カウンセリングの関係を一層強めることとなる。
ロジャーズが提唱したカウンセリングは学習することでどんな人でも身につけられるということである。このカウンセラーの態度は、本や理論を理解することによって得られるのではなく、傾聴力、理解力をつけるトレーニングをすることで体得できるという〈18〉。
以上ロジャーズのカウンセリングを見てきたが、この真宗カウンセリングはどう生み出されたのであろうか。西光は、客観的に見た場合、真宗カウンセリングの特性は二つあるという〈19〉。
1、カウンセラーが真宗の立場に立ってするカウンセリングであるという。真宗カウンセラーは阿弥陀仏に帰依する心、つまり究極的には獲信をしているカウンセラーであるという。
2、「真宗カウンセリング」は法(Dharma)を根底においた、あるいは「法」中心のカウンセリングである。
真宗の救いは現生正定聚の救いである。信心獲得した時に行者は常に自らが如来に照らされ守られて生きている存在であることを自覚する。そのことによって、獲信者は常に如来と共に生きる身である。罪悪深重の身であることは変わらぬままに、如来に見つめられている自分を内省する自己となる。このことを西光は次のように説明する。
真宗者は人格の内面において自己と仏の両次元、有限・相対の次元と無限・絶対の次元をあわせもっている〈20〉
これについて西光は、第一図のような二つの次元を持つと表現する。
この図においてカウンセラーは、底辺に仏の視点を持つ。よって真宗者がカウンセラーとなった場合、クライエント側から見た場合、法の力(仏の視点)を持っているのはカウンセラーのみとなり、その関係は第二図のようになる。
しかしそれが、カウンセラーの側からみると第三図のようになる。
その理由は、仏の視点を持ってクライエントを見ることが出来るからである。つまり、目の前にいるクライエントは自分と同じく仏に願われている仏の子である、と感じることが出来る。そのことによって、前述した必要充分な条件の二番目が満たされる。つまり、カウンセラーがクライエントに対して無条件の積極的尊重をもって接する、ということを実行するのが容易になる。
そして、カウンセラーもクライエントも共に真宗者である場合は、第四図のようになる(第一~第四図は『育ち合う人間関係』一八四~一八五頁より引用)。相互に三角形の底辺には仏の次元をもった関係として、カウンセリングを行うことが出来る。
よって西光は、さらなる真宗カウンセリングの特性として、以下を挙げる。
「真宗カウンセリング」は相対的な存在である自己と他己との関係、相対的存在である自己及び他己と絶対的存在である仏との関係、という二重関係からなるカウンセリングである。〈21〉
西光は真宗カウンセラーによってクライエントが浄土真宗に興味をもち、聞法を志すようになったり、獲信するクライエントも現れてきたという。また真宗カウンセリングを勉強していた僧侶が自らの真宗領解が観念的な理解にとまっていることに気づいたりすることもあるという。
これらの経験から西光は「真宗のこころ」と「カウンセリング」の心が補い合い助け合うことを感じずにいられないという。そのことより主観的に「真宗カウンセリング」と名付ける所以であるという〈22〉。
本節では真宗カウンセリングに主に光を当てたが、西光はこのカウンセリングを真宗カウンセリング、そして、ダルマベースド・パーソンセンタード・アプローチ(Dharma-Based Person-Centered Approach、法を基盤とした人間中心のアプローチ)へと発展させていったのである〈23〉。